「カール・バルト」の版間の差分

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|受賞 = ソニング賞<br />名誉博士号<br />([[セント・アンドルーズ大学 (スコットランド)|セント・アンドリュース大学]]・<br />[[オックスフォード大学]])<br />名誉神学博士号<br />([[シカゴ大学]]・[[ブダペスト大学]])<br />名誉文学博士号<br />([[ソルボンヌ大学]])<br />名誉法学博士号<br />([[エディンバラ大学]])
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=== 方法論の確立 ===
[[1935年]]6月、[[バーゼル大学]]の神学教授に招聘され、精力的に著作活動を展開する。[[1936年]]にかけて[[チェコ]]、[[ハンガリー]]で講演を行った。この旅行で[[チェコ]]の神学者の[[ヨセフ・ルクル・フロマートカ|フロマートカ]]と親交を結び、予定論の古典的解釈を改めるという収穫を得た。[[1937年]]3月にアバディーン大学で講演を行ったことで、バルトの中で次のような枠組みができあがった。神ひとりが神であり、人間という他者に依存しないため、この自己依存性(aseitas)が神の自由である。しかし神は自己のみで存在しようとせず、人間を創造し、語りかけ、交わりをもつ。なぜならば、「神我らとともにいます(インマヌエル)」という神のあり方が神の愛である、というキリスト論的方法論をバルトは確立させるに至った。同年9月に[[セント・アンドルーズ大学 (スコットランド)|セント・アンドリュース大学]]より名誉博士号を受ける。同年、『教会教義学』第一巻が完成した。[[1938年]]3月には[[オックスフォード大学]]より名誉博士号を受ける。バルトの神学を理解したのが[[スコットランド]]の神学者たちであったことと、政治的にバルトのナチス批判を高く評価していたことが背景にあった。
 
[[1939年]]9月の[[第二次世界大戦]]の勃発に対して、バルトは[[ナチス]]を神学的に批判した。思想だけでなく軍事面でもナチスの脅威から防衛するべき、という考えに至って、[[1940年]]に在郷軍人の資格でスイス軍に入隊する。このとき彼は54歳であったが、熱心な軍務の取り組みにより監視・警戒を行う歩哨の任に就いた。しかし上官への敬礼を忘れ、危うく[[懲罰房]]に送られそうになるというハプニングを起こしている。戦争が終わりに近づいたころ、以前のナチスへの攻撃とは反対にドイツ人の友であると宣言した。彼らの進んだ道は看過できる事ではないが、戦火が収まればきっとやり直せると信じていたからであった。[[1945年]]8月にバルトは破壊されたドイツを訪問、マールブルクのブルトマンを尋ねた他、援助に奔走した。[[1949年]]以来、西と東に分断されたドイツの政治的な和解について語り続けた他、ドイツの再軍備と反共産政策について批判した。しかしこれによりソ連とアメリカ、ドイツの知識人からも批判・非難の矢にさらされた。苦境に陥ったバルトを弁護するかのように[[1952年]]に英国女王から自由のために奉仕した人物としてメダルを授与された。