「阪口慶三」の版間の差分

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Marshiy22 (会話 | 投稿記録)
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東邦高校在学中は投手および一塁手として活躍。在学中、野球部は1961年春に甲子園出場を果たすも自身は甲子園の土を踏めずじまい。その後[[愛知大学]]に進み中軸打者一塁手として活躍。卒業後の1967年に母校の社会科教諭および野球部監督に就任。当時は[[中京大中京]]が愛知県の中で最も強豪校だったため、打倒中京を果たすべく“鬼の阪口”“阪口鬼三”などと恐れられる鬼監督として選手をスパルタ指導で鍛え上げ、愛知の強豪校としての伝統を守る。1977年の[[第59回全国高等学校野球選手権大会|夏の甲子園]]では、1年生右腕の“[[バンビ (童話)|バンビ]]”坂本佳一を擁し準優勝。
 
しかし、坂本在学中の甲子園出場は1年夏が最初で最後となった。78年以降、チームは80年春、85年春夏、86年春に出場するも全て初戦敗退。[[愛知私学4強]]の中で唯一蚊帳の外となる、苦い10年間を過ごした。
 
苦悩する鬼監督に転機が訪れたのは、久々に初戦突破した1988年。[[第60回選抜高等学校野球大会|春の甲子園]]で、2年生左腕の山田喜久夫を擁し決勝まで進んだ東邦は、春初出場の[[愛媛県立宇和島東高等学校|宇和島東]]に敗れ、準優勝に終わる。[[上甲正典]]監督をはじめ、笑顔を絶やさずのびのびとプレーする宇和島東ナインに対し、帰名後に見た同試合のビデオテープに映っていた阪口は鬼の形相であったという。(バントを失敗した選手に対してものすごい勢いで怒ったりした。)「こんな顔をしていては選手が萎縮してしまう。」と悟った阪口は、試合中に笑顔を見せるよう努める(最初は手の平に書いた「笑」という文字を見るなどして無理矢理笑っていたらしい)などした結果、翌1989年の[[第61回選抜高等学校野球大会|春の甲子園]]の[[第61回選抜高等学校野球大会決勝|決勝]]では[[元木大介]]、[[種田仁]]らを擁する[[上宮高等学校|上宮]]に延長10回逆転サヨナラ勝ちし、自身初の優勝を決める(サヨナラタイムリーを放った選手が打席へ向かう際に笑顔で打席へ送り出したという)。その試合後のインタビューでは「前年は、私のベンチでのマナーが悪くて優勝を逃してしまった。」と述べていた。