「中村芝翫 (4代目)」の版間の差分

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「大芝翫」の読み
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温厚篤実な性格だったが、覇気に欠ける嫌いがあった。それがわざわいし、明治以降は古風な芸が時代に合わなくなっていった。また、口跡の悪さが年と共にひどくなり、科白覚えが悪いことが新作に向かないなどの理由で、大舞台からは遠ざけられ、小芝居に出るようになった。特に[[1893年]](明治26年)、巡業中の多治見で『[[隅田川続俤|法界坊]]』を上演中に足を負傷し、演技に支障をきたすようになるなど、ますます生彩を欠き晩年は不遇であった。
 
それでも時折[[歌舞伎座]]の舞台に立ち、観客を魅了した。実際の舞台に接した[[岡本綺堂]]は、芝翫の顔立ちの良さは[[市川團十郎 (9代目)|九代目團十郎]]の比ではないほど立派なもので、あの鋭い目で見得をすると他の俳優が光を失うと述懐している。
 
当り役は『[[妹背山婦女庭訓]]』の大判事、『[[寿曽我対面]]』の工藤、『熊谷陣屋』の熊谷、『[[助六]]』の意休『義経腰越状』の五斗兵衛、『[[楼門五三桐|山門]]』の石川五右衛門、『[[夏祭浪花鑑]]』の團七、『金閣寺』の松永大膳、『日高川』の船頭、『隅田川続俤』の法界坊、『鎌倉三代記』の佐々木高綱。所作事は『六歌仙』『[[京鹿子娘道成寺]]』。