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=== 1980年〜1990年代 ===
*[[1980年]] [[イラク]]の[[バグダード]]線開設を予定していたが、[[イラン・イラク戦争]]のため、翌年まで延期される。同社の最後のコンベア機が、フィンランド航空博物館に寄贈される。
*[[1983年]] [[日本人]][[客室乗務員]]を5名採用する。この第1期生はヘルシンキのトレーニングセンターで訓練を受けた後、[[4月22日]]、[[日本]]への乗り入れ開始と共に、日本路線に乗務した。当時<ref group="注釈">1980年代初期の日欧路線では、[[アンカレッジ]]か[[モスクワ]]経由が主流だったが、フィンランド航空では考えられないような画期的な発想を、ソ連と日本路線に持ち込んで話題になる{{誰2|date=2013年6月}}<ref group="注釈">とのフライトルート調整が早期決着し、当時の保有機材であった[[DC-10]]型機を日本路線の専用機材と位置付け、[[北極点]]と[[ベーリング海]]上空経由を、ノン・ストップで結ぶ路線とするした。その方法は、DC-10型機のうち1機の燃料タンクを増強し、3クラス200席強の旅客キャパシティで、その距離1万1024km・13時間半にも及ぶノン・ストップ飛行を可能にしたことによる</ref><ref group="注釈">日本路線開設前に、ボーイング社から長距離国際線専用機材として、[[ボーイング747-SP|ボーイング B747SP747SP]]導入をオファーされた。その内容は、DC-10をB747SPに変更するだけではなく、DC-9と[[シュド・カラベル|シュド・カラベル 10B]] (Super Caravelle) Caravelle)も、[[ボーイング737|ボーイング B737737]]に入れ替える事も提案し、さらに次期主力機として、[[ボーイング757|ボーイング B757757-200]]を導入してはどうか?といった内容だった。B747SPとB737のエンジンは、同社で運航されていたDC-9とDC-10のエンジンと馴染みがあった。機種を変更すれば、乗務員をかなり再訓練する必要があったものの、エンジンを含めメンテナンス費用を最小限に押さえられる為、ボーイングの提案は一考に値するとして、慎重に取締役会で検討された結果、当時マクドネル・ダグラス社がDC-10-30ERシリーズを完成させており、B747SPとほぼ同じ距離を飛行する事が可能となっていた事もあり、昔から導入されて運航されてきたマクドネル・ダグラス社を、次期主力機(その後MD-80シリーズや、MD-11が導入された)も含めて選ぶ事となった</ref><ref group="注釈">成田に到着した機材をそ[[1983年]]当時の日本人客室乗務員うちに折り返さず勤務は1日ステイさせて折り返すスケジュ成田がベルを組んことでった。東京線は開設当初同社が古く週1便しかなかった為、成田から誇りとしていヘルシンキに乗務す定時性と、翌週確保も図られ便が来るまで同社は日本ヘルシンキも「絶対5日間地上待機し、次の東京線遅れな乗務すると、成田で1週間地上待機とエアライう勤務パター」としても注目を集めだっ{{誰2|date=2013年6月}}。《参考文献『白夜の国のヒコーキ物語』「客室乗務員 日本人一期生は5人」92頁39項より、94頁14項まで参照》</ref>会社創業60周年を迎える。
*[[1984年]] 前年より開始された日本=ヨーロッパ間初の[[直行便|ノン・ストップ]]便は営業面でも成功し、1年間で旅客数15,969人、売上高7,270万[[フィンランド・マルッカ|マルッカ]]の実績を残した。その後もロードファクター(座席占有率)94%と、ほぼ満席の状態が続く。世界で初めて[[ATR 42]]-200型機[[ターボプロップエンジン|ターボプロップ]]・[[フライトシミュレーション|フライト・シミュレーター]]を導入する。
*1984年 [[東京]]・[[帝国ホテル]]内に、フィンランド航空エグゼクティブ・ビジネスセンターを開設。ファーストクラス及びビジネスクラスの乗客に、[[秘書]]サービスを提供。外国の航空会社のパイロットが、フィンランド航空パイロット養成訓練所でトレーニングを受け始める。
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*[[1990年]] ヘルシンキ=[[タリン]]線の運航を、46年ぶりに再開。同年[[11月29日]]、[[MD-11]]を受領。これはMD-11の記念すべき初号機だった。[[湾岸危機]]によって、航空燃料代が高騰する。
*[[1991年]] [[ソ連崩壊]]により、日本路線がシベリア上空通過ルートに変更となる。所要時間が約3時間短縮した。[[湾岸戦争]]が始まり、その影響で[[ヨルダン]]、[[イスラエル]]、[[モロッコ]]、[[エジプト]]、[[キプロス]]、[[チュニジア]]、[[ケニア]]等の路線が運休になる。10月より、東京線のファーストクラスを廃止。ビジネスクラスとエコノミークラスの編成となる。
*[[1992年]] 5年前より開始されていた[[マイレージサービス]]の「エアー・プラス」を、『[[{{仮リンク|Finnair Plus(フィンエアープラス]](Finnair)|en|Finnair#Finnair Plus)Plus}}』に維新。
*[[1993年]] MD-11に[[インマルサット]]衛星を使用した[[衛星電話]]を導入。フィンランド航空博物館にて『アエロ・フィンエアー70周年展』を開催。
*[[1994年]] 本社をヘルシンキ・ヴァンター国際空港へ移転。1984年より引き継がれていた[[ムーミン]]や[[サンタクロース]]の特別塗装機<ref group="注釈">[[DC-10]]型機または[[MD-11]](OH-LGC)型機による。</ref>で話題を呼んだ。同年から数年間に渡って就航する。
*[[1995年]][[4月20日]] [[大阪]]線を通年週2便で運航開始。[[12月17日]] 創業以来の乗客数が1億人に達する。大阪線を通年週2便で運航開始
*[[1996年]] [[4月9日]] [[ボーイング757|ボーイング 757-200]]の導入が取締役会で決定された。同年、[[ニューヨーク]]のエアカーゴ・ニューズが、『エアライン・オブ・ザ・イヤー』にフィンランド航空を選出する。同社に残った最後のDC-10-30ER(日本路線使用機・[[機体記号]]N345HC)を、[[フランス]]の{{仮リンク|エールリベルテ|en|Air Liberté|}}に[[リース]]し、フィンランド航空から[[DC-10]]が全機退役した。
*1996年[[9月]] フィンランドで[[1950年]]に設立された航空会社、{{仮リンク|カー・エア|en|Kar-Air}}(Kar-Air)を[[吸収合併]]した。
*[[1997年]] 路線の全席[[禁煙]]化を進め、[[3月30日]]の段階で、[[喫煙]]席が残されたのは日本路線のみとなった。同年、[[ヴァスコ・ダ・ガマ]]賞を受賞。ヘルシンキ・ヴァンター国際空港の[[貨物]]ターミナルで、[[貨物|カーゴ]]センターを拡張。北欧最大規模となる広さ16万7千平方メートル(約5万1000坪)という規模で、近年の貨物取扱量の増大に対応した。