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=== 1980年〜1990年代 ===
*[[1980年]] [[イラク]]の[[バグダード]]線開設を予定していたが、[[イラン・イラク戦争]]のため、翌年まで延期される。同社の最後のコンベア機が、フィンランド航空博物館に寄贈される。
*[[1983年]] [[日本人]][[客室乗務員]]を5名採用する。この第1期生はヘルシンキのトレーニングセンターで訓練を受けた後、[[4月22日]]、[[日本]]への乗り入れ開始と共に、日本路線に乗務した。
*[[1984年]] 前年より開始された日本=ヨーロッパ間初の[[直行便|ノン・ストップ]]便は営業面でも成功し、1年間で旅客数15,969人、売上高7,270万[[フィンランド・マルッカ|マルッカ]]の実績を残した。その後もロードファクター(座席占有率)94%と、ほぼ満席の状態が続く。世界で初めて[[ATR 42]]-200型機[[ターボプロップエンジン|ターボプロップ]]・[[フライトシミュレーション|フライト・シミュレーター]]を導入する。
*1984年 [[東京]]・[[帝国ホテル]]内に、フィンランド航空エグゼクティブ・ビジネスセンターを開設。ファーストクラス及びビジネスクラスの乗客に、[[秘書]]サービスを提供。外国の航空会社のパイロットが、フィンランド航空パイロット養成訓練所でトレーニングを受け始める。
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*[[1990年]] ヘルシンキ=[[タリン]]線の運航を、46年ぶりに再開。同年[[11月29日]]、[[MD-11]]を受領。これはMD-11の記念すべき初号機だった。[[湾岸危機]]によって、航空燃料代が高騰する。
*[[1991年]] [[ソ連崩壊]]により、日本路線がシベリア上空通過ルートに変更となる。所要時間が約3時間短縮した。[[湾岸戦争]]が始まり、その影響で[[ヨルダン]]、[[イスラエル]]、[[モロッコ]]、[[エジプト]]、[[キプロス]]、[[チュニジア]]、[[ケニア]]等の路線が運休になる。10月より、東京線のファーストクラスを廃止。ビジネスクラスとエコノミークラスの編成となる。
*[[1992年]] 5年前より開始されていた[[マイレージサービス]]の「エアー・プラス」を、『
*[[1993年]] MD-11に[[インマルサット]]衛星を使用した[[衛星電話]]を導入。フィンランド航空博物館にて『アエロ・フィンエアー70周年展』を開催。
*[[1994年]] 本社をヘルシンキ・ヴァンター国際空港へ移転。1984年より引き継がれていた[[ムーミン]]や[[サンタクロース]]の特別塗装機<ref group="注釈">[[DC-10]]型機または[[MD-11]](OH-LGC)型機による。</ref>で話題を呼んだ。同年から数年間に渡って就航する。
*[[1995年]][[4月20日]] [[大阪]]線を通年週2便で運航開始。[[12月17日]] 、創業以来の乗客数が1億人に達する
*[[1996年]]
*1996年[[9月]] フィンランドで[[1950年]]に設立された航空会社、{{仮リンク|カー・エア|en|Kar-Air}}(Kar-Air)を[[吸収合併]]した。
*[[1997年]] 路線の全席[[禁煙]]化を進め、[[3月30日]]の段階で、[[喫煙]]席が残されたのは日本路線のみとなった。同年、[[ヴァスコ・ダ・ガマ]]賞を受賞。ヘルシンキ・ヴァンター国際空港の[[貨物]]ターミナルで、[[貨物|カーゴ]]センターを拡張。北欧最大規模となる広さ16万7千平方メートル(約5万1000坪)という規模で、近年の貨物取扱量の増大に対応した。
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