「大塩平八郎の乱」の版間の差分

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大塩の発した[[檄文]]は幕府に反感を持つ庶民の手で、取締りをかいくぐって筆写により全国に伝えられ、[[越後国]]では[[国学]]者の[[生田万]]が、[[柏崎]]の代官所を襲撃する乱を起している。さらにその檄文は[[寺子屋]]の習字の手本にされたほどだった。
 
また、京都が大坂が都に近いということで、[[2月25日 (旧暦)|2月25日]]に[[京都所司代]][[松平信順]]から[[光格天皇|光格上皇]]および[[仁孝天皇]]に対して事件の報告が行われ、以後大塩の死亡までたびたび捜索の状況が幕府から朝廷に報告された。一方、朝廷からは諸社に対して豊作祈願の祈祷が命じられ、また朝廷の命により幕府がその費用を捻出している。[[尊号一件]]などで[[大政委任]]を盾に朝廷に対して強硬な姿勢を示していた幕府が朝廷の命令をそのまま認めたことに、幕末に向かい、幕府の権威が下がり、朝廷の権威が上昇していく兆しと見ることができる。
 
== 備考 ==