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| 画像サイズ =
| 画像説明 =
| 渾名 =
*ゲヘナ(Gégèna<ref name="Mourir_a_Berlin_p221">Jean Mabire '''« Mourir à Berlin »'''(réédition : Grancher, 1995)p221</ref>:[[十六小地獄 (焦熱地獄)|焦熱地獄]]<ref name="Beevor_Berlin">アントニー・ビーヴァー(著), Antony Beevor(原著), 川上 洸(訳) '''『ベルリン陥落 1945』'''(白水社、2004年)p516</ref>)<br>
*[[マイスター]]・デア・[[パンツァーファウスト]](Meister der Panzerfaust)<ref>Ernst-Günther Krätschmer '''« Die Ritterkreuzträger der Waffen-SS »'''<br>
*NATION EUROPA VERLAG, 2003(第5版)p929
*Edition Zeitgeschichte, 2012(第6版:2012年度新装改訂版)p783</ref><br>ル・[[チャンピオン|シャンピオン]]・デュ・[[パンツァーファウスト]](Le champion du ''Panzerfaust'')<ref name="Mourir_a_Berlin_p222">Mabire, '''« Mourir à Berlin »a'''(réédition : Grancher, 1995)p222</ref>
| 生誕地 = {{Flagicon|FRA}} [[フランス共和国]]<br>[[パリ]]
| 死没地 = {{Flagicon|DEU1935}} [[ドイツ国]]([[ナチス・ドイツ]])<br>[[ベルリン]]
| 所属政体 = {{Flagicon|DEU1935}} [[ナチス・ドイツ]]<br>
| 所属組織 = [[ファイル:Balkenkreuz.svg|26px]] [[ドイツ陸軍 (国防軍)|ドイツ陸軍]]<br>
*[[File:Französische Legion Mod1.svg|26px]] [[反共フランス義勇軍団]]<br>
[[ファイル:War_Ensign_of_Germany_1938-1945.svg|26px]] [[ドイツ海軍 (国防軍)|ドイツ海軍]]<br>
*第28海軍基幹(訓練)大隊
[[ファイル:Flag Schutzstaffel.svg|26px]] [[武装親衛隊]]<br>
*[[ファイル:33divss.gif|26px]] [[第33SS武装擲弾兵師団|第33SS所属武装擲弾兵師団「シャルルマーニュ」]]
*[[フランスSS突撃大隊]]
| 軍歴 = 1941年 - 1943年(反共フランス義勇軍団)<br>1944年(ドイツ海軍)<br>1944年 - 1945年(武装親衛隊)
| 最終階級 = [[ファイル:SS-Unterscharführer.svg|26px]] [[親衛隊伍長|SS所属武装伍長]]
| 部隊 =
| 戦闘 = '''[[独ソ戦]]'''<br
| 戦功 = [[ベルリン市街戦]]で[[パンツァーファウスト]]を用いて[[
| 賞罰 = '''[[騎士鉄十字章]]'''
| 除隊後 =
| 廟 =
}}
'''ウジェーヌ・ギュスターヴ・ヴォロ'''('''Eugène Gustave Vaulot'''<ref name="
1941年下旬から1943年初旬までは[[ドイツ陸軍 (国防軍)|ドイツ陸軍]]のフランス人義勇兵部隊「[[反共フランス義勇軍団]]」([[:fr:Légion des volontaires français contre le bolchevisme|LVF]]:ドイツ陸軍第638歩兵連隊)に所属し、[[独ソ戦|東部戦線]]での戦功によって[[二級鉄十字章]]を受章。1944年5月からは[[ドイツ海軍 (国防軍)|ドイツ海軍]]([[:de:Kriegsmarine|Kriegsmarine]])に所属していたが、1944年9月、再編成に伴って[[武装親衛隊]]([[:de:Waffen-SS|Waffen-SS]])へ移籍した。<br><br>
[[第33SS武装擲弾兵師団|第33SS所属武装擲弾兵師団「シャルルマーニュ」]](33. Waffen-Grenadier-Division der SS „Charlemagne”)では師団司令部直属[[エリート]][[歩兵]][[中隊]]'''「名誉中隊」(Compagnie d'Honneur)'''の第2[[小隊|小隊長]]を務め、1945年2月下旬の[[独ソ戦|東部戦線]]・[[ポメラニア]]へ出陣。2月25日午後、エルゼナウ(''Elsenau''、現[[オルシャノボ]]([[:pl:Olszanowo|Olszanowo]]))の戦いで「シャルルマーニュ」師団司令部に迫った[[赤軍]][[戦車]]部隊のうち、[[IS-2|IS-2(スターリン重戦車)]]を含む2輌の赤軍戦車を撃破した([[一級鉄十字章]]受章)。<br><br>
[[独ソ戦]]の最終局面である1945年4月末、[[第33SS武装擲弾兵師団|「シャルルマーニュ」師団]]の生存者の中で戦闘継続を希望した約300名の将兵の1人となり、'''「[[フランスSS突撃大隊]]」(Französische SS-Sturmbataillon)'''に配属された'''「戦術学校」(Kampfschule)'''(旧称:名誉中隊)の第6分隊長(6. Truppführer)として[[ベルリン市街戦]]に参加。[[市街戦]]中に[[パンツァーファウスト]]を用いた近接戦闘で[[赤軍]][[戦車]]を合計8輌撃破した功績により、1945年4月29日、フランス人として初めて[[騎士鉄十字章]]を受章した。最終階級は[[親衛隊伍長|SS所属武装伍長]](Waffen-Unterscharführer der SS)<ref name="WSSFv2_Vaulot">Grégory Bouysse '''« Waffen-SS Français volume 2 »'''(lulu, 2011)、"Sous-Officiers et soldats issus de la Kriegsmarine, SK : Sous-officiers : '''Eugène VAULOT'''" </ref><ref group="注">「SS所属武装***」(Waffen-*** der SS)の名称を義勇兵の氏名と併記する場合は、「SS所属」(der SS)の部分が省略される。<br>
例: ウジェーヌ・ヴォロ[[親衛隊伍長|武装伍長]](''W-Uscha.'' Eugène Vaulot)</ref>。
他の日本語表記として、ウジェーヌ・ヴァンロー<ref name="Beevor_Berlin"/>、コージューヌ・ヴーロー<ref>ヴィル・フェイ(著), Will Fey(原著), 梅本弘(翻訳)'''『SS戦車隊・下』'''(大日本絵画、1994年)p282</ref>、ファウロート<ref>高橋慶史'''『続 ラスト・オブ・カンプフグルッペ』'''(大日本絵画、2005年)p315</ref>がある。
== 第二次世界大戦初期~後期 ==
=== ドイツ陸軍反共フランス義勇軍団 ===
[[1923年]][[6月1日]]<ref name="Agte_p163"/><ref name="WSSFv2_Vaulot"/><ref name="Forbes_p447">Robert Forbes '''« FOR EUROPE : The French Volunteers of the Waffen-SS »'''(Helion & Co., 2006)p447</ref><ref>Ernst-Günther Krätschmer '''« Die Ritterkreuzträger der Waffen-SS »'''(Edition Zeitgeschichte, 2012)p782</ref>{{#tag:ref|出典は[[フランス官報]]([[:fr:Journal officiel de la République française|Jounal officiel]])2/3/48。<br>
なお、[[:en:Richard Landwehr|Richard Landwehr]]の著書 '''« Charlemagne's Legionnaires »'''<br>
*初版(Bibliophile Legion Books, 1989)
*新装改訂版('''« French Volunteers of the Waffen-SS »''' Siegrunen Publications / Merriam Press, 2006)p151<br>
におけるヴォロの生年(1921年)は誤り<ref name="Forbes_p447"/>。|group=注}}、ウジェーヌ・ヴォロは[[フランス共和国]]の[[首都]][[パリ]]([[:fr:Paris|Paris]])に生まれた。
成長後は[[配管工]]<ref name="Beevor_Berlin"/><ref name="WSSFv2_Vaulot"/><ref name="Forbes_p447"/>{{#tag:ref|Landwehrは著書でヴォロの職業を「[[電気工事士]]」(electrician)<ref name="Landwehr_2006">Richard Landwehr '''« French Volunteers of the Waffen-SS »'''(Siegrunen Publications / Merriam Press, 2006)pp.150-152.</ref>としている。|group=注}}として働いていたが、[[独ソ戦]]開始後の1941年夏、[[ドイツ国防軍]][[ドイツ陸軍 (国防軍)|陸軍]]の指揮下で[[共産主義]]([[ソビエト連邦]])と戦うフランス人義勇兵部隊'''「[[反共フランス義勇軍団]]」([[:fr:Légion des volontaires français contre le bolchevisme|Légion des Volontaires Français contre le bolchevisme (LVF)]])'''が[[ヴィシー政権|ヴィシー政権期フランス国]]内で創設されると、当時18歳のヴォロもこれに志願し、1941年下旬に入隊した<ref name="Forbes_p447"/>。
1942年から1943年にかけて、ヴォロは反共フランス義勇軍団(ドイツ陸軍第638歩兵連隊)第Ⅰ大隊第1中隊の一員として[[独ソ戦|東部戦線]]に従軍した。その間の戦功によってヴォロは[[下士官]]に昇進し、1942年秋には[[東部戦線従軍記章]]([[:de:Medaille Winterschlacht im Osten 1941/42|Ostmedaille]])を受章し<ref name="Agte_p163"/>、併せて[[二級鉄十字章]]も受章した<ref name="Forbes_p447"/>。
その後の1943年初旬、[[外傷|戦傷]]が原因でヴォロは反共フランス義勇軍団を[[除隊]]し、[[フランス]]へ帰国した<ref name="Agte_p163"/>。
=== ドイツ海軍第28海軍基幹(訓練)大隊 ===
[[反共フランス義勇軍団]]を[[除隊]]して東部戦線([[ロシア]])から[[フランス]]へ帰国した後、ウジェーヌ・ヴォロは[[民間人]]としての生活に戻った。
しかし、「[[ヨーロッパ]]の運命がどうなるか分からない」([[ナチス・ドイツ]]と[[ソビエト連邦]]のどちらが[[戦争]]に勝利するか分からない)状況での暮らしに満足できなかった<ref name="Landwehr_2006"/>ヴォロは再び[[義勇兵]]になることを選び、1944年5月3日<ref name="Agte_p163"/>、[[カルヴァドス県]][[カーン]]で[[ドイツ海軍 (国防軍)|ドイツ海軍]]([[:de:Kriegsmarine|Kriegsmarine]])へ志願入隊した{{#tag:ref|[[ドイツ海軍 (国防軍)|ドイツ海軍]]は1944年2月から[[フランス人]][[義勇兵]]の募集を開始しており、これに伴って3月中旬に[[ヴィシー政権]]はドイツ海軍へフランス国民(フランス人)が志願入隊することを認める法律を制定していた<ref>Forbes, p146</ref>。|group=注}}。
*NATION EUROPA VERLAG, 2003(第5版)p928
*Edition Zeitgeschichte, 2012(第6版:2012年度新装改訂版)p783</ref>とされているが、Forbesによるとドイツ海軍第28海軍基幹(訓練)大隊第4中隊は[[エストニア]]人および[[ラトビア]]人義勇兵中隊である(第3中隊と第6中隊がフランス人中隊)<ref name="Forbes_p147">Forbes, p147</ref>。|group=注}}、6~8週間に渡る過酷な訓練([[フィジカルトレーニング|肉体鍛錬]]・[[基本教練]])を受けた<ref name="Forbes_p147"/>。
ゼンハイムでの訓練期間終了後の1944年7月1日<ref name="Agte_p163"/>、訓練の次の段階へ進むために第6中隊は[[ドイツ]]西部の都市[[デュイスブルク]]([[:de:Duisburg|Duisburg]])へ送られた。ここで第6中隊は名称を「第2中隊」に変更され、ドイツ海軍フランス人義勇兵たちは数ヶ月間に渡って[[武器]]教練、[[海軍]]の専門訓練、[[湖]]や[[川|河川]]における[[ボート]]操作訓練を受けた<ref>Forbes, p148</ref>。<br><br>
なお、ドイツ海軍時代にウジェーヌ・ヴォロは次のフランス人義勇兵と知己の仲になった。<br>
*{{Flagicon|FRA}} '''[[フランソワ・アポロ]](François Appolot)'''<br>
: 元[[フランス陸軍]][[第28歩兵連隊 (フランス軍)|第28要塞歩兵連隊]]([[:fr:28e régiment d'infanterie#Seconde Guerre mondiale|28{{sup|ème}} RIF]])の[[フランス陸軍の階級一覧|上級軍曹]]であり、1940年6月、[[ナチス・ドイツのフランス侵攻|フランスの戦い]]で[[ドイツ軍]]の[[捕虜]]となった。1942年末、[[ナチス・ドイツの経済#外国人労働者|ナチス・ドイツの外国人労働者]]になることを選んで捕虜収容所から釈放され、後に[[東プロイセン]]のドイツの[[軍港]]([[バルチースク|ピラウ]]、[[ケーニヒスベルク (プロイセン)|ケーニヒスベルク]])で働いていた時に諸事情によって[[ドイツ海軍 (国防軍)|ドイツ海軍]]へ入隊した<ref>Grégory Bouysse '''« Waffen-SS Français volume 2 »'''(lulu, 2011)、"Sous-officiers et soldats issus de la Kriegsmarine, SK : Sous-officiers : '''François Appolot'''"</ref>。<br><br>
*{{Flagicon|FRA}} '''[[ロベール・スーラ]](Robert Soulat)'''<br>
: 元[[フランス陸軍]][[第24チュニジア狙撃兵連隊 (フランス軍)|第24チュニジア狙撃兵連隊]]([[:fr:24e régiment de tirailleurs tunisiens|24{{sup|ème}} RTT]])の[[フランス陸軍の階級一覧|伍長]]。[[ナチス・ドイツのフランス侵攻|フランスの戦い]]の最中の1940年5月19日から20日にかけての夜、[[ノール県]][[ヴァランシエンヌ]]~[[カンブレー]]間の地区を奇襲した[[ドイツ陸軍 (国防軍)|ドイツ陸軍]][[第7装甲師団 (ドイツ国防軍)|第7装甲師団]]([[:de:7. Panzer-Division (Wehrmacht)|7. Panzer-Division]]:[[エルヴィン・ロンメル|エルヴィン・ロンメル少将]]の部隊)の[[捕虜]]となった。
: 1943年初旬に捕虜収容所から釈放された後は[[ナチス・ドイツによるフランス占領|ナチス・ドイツ占領下のフランス]]へ帰国し、フランス国内の[[トート機関]]([[:de:Organisation Todt|Organisation Todt]])で働いていたが、1944年5月15日に[[カーン]]で[[ドイツ海軍 (国防軍)|ドイツ海軍]]へ志願入隊。まったく[[水泳|泳ぐ]]ことができない(いわゆる[[金槌#補足|カナヅチ]])にもかかわらずドイツ「[[海軍]]」へ志願入隊した<ref>Grégory Bouysse '''« Waffen-SS Français volume 2 »'''(lulu, 2011)、"Sous-officiers et soldats issus de la Kriegsmarine, SK : Soldats & Caporaux : '''Robert SOULAT'''"</ref>変わり者であったが、[[ドイツ語]]の[[識字|読み書き]]・[[会話]]能力は極めて優秀。<br><br>
*{{Flagicon|FRA}} '''ピエール・スリエ(Pierre Soulier)'''<br>
: 1943年に[[トート機関]]労働者警備隊「シュッツコマンド」([[:fr:Schutzkommando|Schutzkommando (SK)]] / Organisation Todt)へ参加し、[[独ソ戦|東部戦線]]([[ロシア]])で数ヶ月間勤務していた[[フランス人]]。1944年初旬に[[ドイツ海軍 (国防軍)|ドイツ海軍]]へ志願入隊した<ref>Grégory Bouysse '''« Waffen-SS Français volume 2 »'''(lulu, 2011)、"Sous-officiers et soldats issus de la Kriegsmarine, SK : Sous-officiers : '''Pierre SOULIER'''"</ref>。
== 1944年9月 武装親衛隊への移籍 ==
1944年9月、[[ドイツ陸軍 (国防軍)|ドイツ陸軍]]・[[ドイツ海軍 (国防軍)|ドイツ海軍]]・[[武装親衛隊]]・その他の組織に所属するフランス人義勇兵の再編・統合に伴い、ドイツ海軍フランス人義勇兵は1944年9月16日付で武装親衛隊の新設のフランス人義勇兵旅団(後の[[第33SS武装擲弾兵師団|第33SS所属武装擲弾兵師団「シャルルマーニュ」]])へ移籍した。これによってウジェーヌ・ヴォロも武装親衛隊へ移籍{{#tag:ref|ウジェーヌ・ヴォロが[[武装親衛隊]]へ移籍(入隊)した年月日は文献によって異なっている。<br>
*「1944年9月16日」(Entre à la Waffen-SS le 16.09.1944.)<ref name="WSSFv2_Vaulot"/>
*「1944年9月20日」(Am 20. September 1944)<ref name="Agte_p163"/>|group=注}}し、正確な日付は不明であるが[[親衛隊伍長|SS所属武装伍長]](Waffen-Unterscharführer der SS)に任官した<ref name="WSSFv2_Vaulot"/>。
=== SS所属武装擲弾兵旅団「シャルルマーニュ」警備・訓練中隊 ===
1944年9月末から10月初旬にかけて、フランスSS部隊総監[[グスタフ・クルケンベルク]][[親衛隊少将|SS少将]](''SS-Brigf.'' [[:de:Gustav Krukenberg|Gustav Krukenberg]])は[[第33SS武装擲弾兵師団|SS所属武装擲弾兵旅団「シャルルマーニュ」]]の将兵の模範となるべき[[エリート]][[歩兵]]部隊として、旅団の[[ドイツ人]]部署であるフランスSS部隊査察部(Inspektion der Französischen SS-Verbänd)に'''「警備・訓練中隊」(Wach-und Ausbildungskompanie)'''を創設した<ref name="Forbes_p213">Forbes, p213</ref>。
初代中隊長[[クリスティアン・マルトレ]]SS義勇連隊付上級士官候補生(''SS-Frw. StdObJu.'' Christian Martrès:1944年11月9日付で[[親衛隊少尉|SS義勇少尉]]任官)の下、創設当初の警備・訓練中隊は30名編成の[[小隊]]3個で構成されていた。そのうち2個小隊は[[ドイツ海軍 (国防軍)|ドイツ海軍]]第28海軍基幹(訓練)大隊第2中隊出身のフランス人義勇兵で構成されており、第1小隊長は[[フランソワ・アポロ]][[親衛隊曹長|武装曹長]](''W-Oscha.'' François Appolot)が務め、ウジェーヌ・ヴォロ[[親衛隊伍長|武装伍長]]は第2小隊長を務めた。
{{quotation|
[[ファイル:33divss.gif|26px]] '''SS所属武装擲弾兵旅団「シャルルマーニュ」フランスSS部隊査察部所属警備・訓練中隊(Wach-und Ausbildungskompanie der Inspektion / Waffen-Grenadier-Brigade der SS „Charlemagne“):1944年10月 ヴィルトフレッケン演習場'''<br />
'''[[中隊|中隊長]] {{Flagicon|FRA}} [[クリスティアン・マルトレ]]SS義勇連隊付上級士官候補生(''SS-Frw. StdObJu.'' Christian Martrès)'''
*第1小隊 {{Flagicon|FRA}} [[フランソワ・アポロ]]武装曹長(''W-Oscha.'' François Appolot)
*第2小隊 {{Flagicon|FRA}} ウジェーヌ・ヴォロ武装伍長(''W-Uscha.'' Eugène Vaulot)
*第3小隊 {{Flagicon|FRA}} エドモン・シャルルSS義勇曹長(''SS-Frw. Oscha.'' Edmond Charles)
|}}
この時期、ヴォロは中隊長マルトレSS義勇連隊付上級士官候補生に気に入られて[[親衛隊曹長|曹長]](Oberscharführer)への昇進推薦を受けたが、この推薦はフランスSS部隊査察部によって却下された<ref name="Forbes_p213"/>。
1944年11月初旬(11月9日から数日後)、[[第5SS装甲師団|第5SS装甲師団「ヴィーキング」]]出身の歴戦の[[ドイツ人]]将校[[ヴィルヘルム・ヴェーバー (親衛隊隊員)|ヴィルヘルム・ヴェーバー]][[親衛隊中尉|SS中尉]](''SS-Ostuf.'' [[:en:Wilhelm Weber (SS officer)|Wilhelm Weber]])が警備・訓練中隊に着任した。初代中隊長[[クリスティアン・マルトレ]]SS義勇少尉はヴェーバーSS中尉との衝突・対立が原因で第57SS所属武装擲弾兵連隊本部へ転属となり、以後の警備・訓練中隊は新たな中隊長ヴェーバーSS中尉の過酷な訓練プログラムによって徹底的に鍛え上げられた<ref>Forbes, p214, 217.</ref>。
== 1945年2月下旬 ポメラニア戦線 ==
1945年2月下旬、ウジェーヌ・ヴォロ武装伍長は[[第33SS武装擲弾兵師団|第33SS所属武装擲弾兵師団「シャルルマーニュ」]](33. Waffen-Grenadier-Division der SS „Charlemagne”)師団司令部直属[[エリート]][[歩兵]][[中隊]]'''「名誉中隊」(Compagnie d'Honneur)'''(旧称:警備・訓練中隊)の第2[[小隊|小隊長]]として[[独ソ戦|東部戦線]]の[[ポメラニア]]へ出陣した<ref name="WSSFv2_Vaulot"/>。
=== 2月25日 エルゼナウの戦い ===
1945年2月25日、[[第33SS武装擲弾兵師団|「シャルルマーニュ」師団]]はハマーシュタイン(''Hammerstein''、現[[ツァルネ]]([[:pl:Czarne|Czarne]]))~ベーレンヴァルデ(''Bärenwalde''、現[[ビンチェ]]([[:pl:Bińcze|Bińcze]]))間の[[線路 (鉄道)|鉄道線路]]に沿って防衛線を敷いた。しかし、重装備([[戦車]]・[[榴弾砲]])も支援も予備兵力も無い状態で[[ソビエト連邦|ソビエト]][[赤軍]]の猛攻を防ぐことは不可能であった。数時間の激戦の後、防衛線を突破した赤軍は攻撃の矛先を「シャルルマーニュ」師団司令部が置かれているエルゼナウ(''Elsenau''、現[[オルシャノボ]]([[:pl:Olszanowo|Olszanowo]]))に向けた。
この時、[[ヴィルヘルム・ヴェーバー (親衛隊隊員)|ヴィルヘルム・ヴェーバー]]SS中尉が指揮を執る名誉中隊はエルゼナウ村の外周に布陣し、赤軍の来襲に備えた。やがて14輌の赤軍戦車がエルゼナウへ迫ると、ヴェーバーSS中尉が[[ドイツ国防軍]]部隊から借り受けていた1門の[[対戦車砲]]が先頭戦車を撃破し、後続戦車の進路を塞いだ。[[パンツァーファウスト]]を手にしたフランス兵は散開し、次々と後続戦車を撃破していった<ref>Forbes, pp.284-286.</ref>。
しかし、その後も大量に押し寄せる赤軍戦車と歩兵部隊によって名誉中隊は多数の死傷者を出した。全滅を回避するために、ヴェーバーSS中尉と名誉中隊はエルゼナウまで後退を開始した。
再び赤軍戦車が迫ったが、中隊長[[ヴィルヘルム・ヴェーバー (親衛隊隊員)|ヴェーバー]]SS中尉をはじめとする名誉中隊の生存者は奮戦し、多数の[[T-34]]を撃破した。ヴォロの戦友ピエール・スリエ[[親衛隊伍長|武装伍長]](''W-Uscha.'' Pierre Soulier)は防衛線を突破した1輌を[[テラーミーネ]]([[:en:Teller mine|Teller mine]]:[[地雷#対戦車地雷|対戦車地雷]])で撃破し、午後4時15分に[[パンツァーファウスト]]を用いて2輌目を、数分後に3輌目を仕留めた。スリエがパンツァーファウストを補給するために中隊指揮所まで戻ってきた時、ヴェーバーSS中尉は自身の[[一級鉄十字章]]を取り外してスリエの軍服に取り付けた<ref name="Forbes_p287">Forbes, p287</ref>。
第1小隊長[[フランソワ・アポロ]][[親衛隊曹長|武装曹長]]とフォントネー[[親衛隊上等兵|武装上等兵]](''W-Strmm.'' Fontenay)はそれぞれ2輌の敵戦車を撃破した。20歳の元学生ジャン・ウダン(Jean Oudin)は1輌目を攻撃した際に負傷したが後送を拒否して戦い続け、2輌目を仕留め損ねた際に[[戦死]]した。この時、第2小隊長ウジェーヌ・ヴォロ武装伍長は敵戦車1輌を撃破していた<ref name="Forbes_p287"/>。
そのような状況の中、1輌の[[IS-2|IS-2(スターリン重戦車)]]が出現した。しかし、故障のためか同戦車は歩兵の援護下で停車した。スリエとヴォロは匍匐前進で近付き、[[StG44 (突撃銃)|突撃銃]]の掃射を浴びせて戦車の周りの赤軍兵を追い散らした。やがてスリエとヴォロの戦友デュピュア(Dupuis)、ギャロ(Garrot)、シェニッツ(Schenitz)も戦闘騒音を耳にして集まり、彼らはスターリン重戦車を包囲した。スターリン重戦車は機銃を掃射してフランス兵を[[塹壕]]に釘付けにしたが、ヴォロが発射した[[パンツァーファウスト]]の弾頭が直撃し、[[松明]]のごとく炎上した<ref name="Forbes_p287"/>。
その後、ヴォロたちは重傷を負ったシェニッツ(スターリン重戦車を狙った友軍の銃撃の兆弾が命中)を引きずって中隊に帰還した(シェニッツは数分後に[[野外病院|救護所]]で死亡)。スターリン重戦車を撃破したヴォロのためにヴェーバーSS中尉が授与できる勲章は無かったが、撃墜された後に地上で「シャルルマーニュ」師団名誉中隊と肩を並べて戦い、赤軍戦車を2輌撃破していた1人の[[ドイツ空軍 (国防軍)|ドイツ空軍]][[戦闘機]][[パイロット]]<ref name="Forbes_p287"/>が自身の[[一級鉄十字章]]をヴォロに授与した<ref name="Agte_p163"/>。
1945年2月25日午後5時30分、この時点においてエルゼナウで撃破された赤軍戦車は19輌を数えたが、そのうち17輌は「シャルルマーニュ」師団名誉中隊が多大な犠牲を払いつつ撃破したものであった。ヴォロの戦友ピエール・スリエ武装伍長は5輌目の敵戦車を攻撃する際に、[[カミーユ・ルーヴル]]SS義勇上等兵(''SS-Frw. Strmm.'' Camille Rouvre)は3輌目を撃破した時にそれぞれ[[戦死]]し、第1小隊長[[フランソワ・アポロ]][[親衛隊曹長|武装曹長]]は2度負傷して後送された。ヴォロをはじめ、これら「戦車殺し」の多くの者がドイツ海軍出身の武装親衛隊フランス人義勇兵であった<ref>Forbes, p288</ref>{{#tag:ref|文献によってはエルゼナウの戦いの日付が「1945年2月26日」(26. Februar 1945)、フランス人義勇兵が撃破したソビエト赤軍戦車の数が「18輌」(18 Sowjetpanzer im Nahkampf vernichten)とされている<ref name="Agte_p163"/>。|group=注}}。
=== ポメラニア戦線撤退 ===
しかし、名誉中隊の奮戦も甲斐なく、[[第33SS武装擲弾兵師団|「シャルルマーニュ」師団]]は1945年2月25日午後遅くにハマーシュタイン、翌26日にノイシュテッティン(''Neustettin''、現[[シュチェチネク]]([[:pl:Szczecinek|Szczecinek]]))まで後退した。
ウジェーヌ・ヴォロ武装伍長が所属する名誉中隊はエルゼナウの戦いで損害を被ったため、師団本隊に先んじてポメラニア戦線から引き揚げられた。エルゼナウの戦いの後、中隊は[[バルト海]]沿岸部の都市コールベルク(''Kolberg''、現[[コウォブジェク]]([[:pl:Kołobrzeg|Kołobrzeg]]))に到達し、その後は鉄道でグライフェンベルク(''Greifenberg''、現[[グリフィツェ]]([[:pl:Gryfice|Gryfice]]))に移動<ref>Forbes, pp.356-357.</ref>、3月8日に[[ドイツ]]北部の都市[[アンクラム]]([[:de:Anklam|Anklam]])へ到着した<ref>Forbes, p382</ref>。
== 1945年4月 ベルリン市街戦 ==
=== 戦術学校 ===
1945年4月24日、「シャルルマーニュ」師団(連隊)の生存者の中で戦闘継続を希望した約300名の将兵
{{see also|ベルリン市街戦|フランスSS突撃大隊}}
[[File:Berlin-Neukölln Karte.png|thumb|[[ベルリン]]・[[ノイケルン区]]の地図]]
[[ファイル:Panzerfaust helsinki.jpg|150px|right|thumb|[[パンツァーファウスト]]]]
1945年4月26日、[[ノイケルン区|ノイケルン]]の戦いで戦術学校はフランスSS突撃大隊の予備兵力として[[ベルリン・テンペルホーフ国際空港|テンペルホーフ空港]]からさほど離れていないヘルマン広場([[:de:Hermannplatz|Hermannplatz]])に展開した
この日の終わりまでにフランスSS突撃大隊はノイケルンで14輌の[[T-34]]を撃破したが、このうち2輌はヴォロが撃破した戦車であった。[[パンツァーファウスト]]を用いた対戦車戦闘の達人であるヴォロは、戦友たちから「ゲヘナ」(Gégène<ref name="Mourir_a_Berlin_p222"/><ref name="Agte_p164">Agte, p164</ref>:[[十六小地獄 (焦熱地獄)|焦熱地獄]]<ref name="Beevor_Berlin"/>)、または賞賛と若干の嫉妬交じりに「ル・[[チャンピオン|シャンピオン]]・デュ・パンツァーファウスト」(Le champion du ''Panzerfaust'')<ref name="Mourir_a_Berlin_p222"/>という渾名で呼ばれていた。
=== 1945年4月29日 騎士鉄十字章受章 ===
1945年4月29日早朝、この日までにベルリンで(26日にノイケルンで撃破した2輌の[[T-34]]含む)4輌の赤軍戦車を撃破したウジェーヌ・ヴォロ武装伍長は、戦術学校指揮官の[[ヴィルヘルム・ヴェーバー (親衛隊隊員)|ヴィルヘルム・ヴェーバー]]SS中尉に紹介されて[[フランスSS突撃大隊]]指揮官[[アンリ・フネ]][[親衛隊大尉|SS義勇大尉]](''SS-Frw. Hstuf.'' [[:fr:Henri Fenet|Henri Fenet]])と対面した。この時、ヴォロは戦友のロジェ・アルベール=ブリュネSS義勇伍長(''SS-Frw. Uscha.'' Roger Albert-Brunet:フネの部下の1人で、4月29日朝までにベルリンで赤軍戦車3輌撃破)と共に敵戦車の撃破数を競っていた<ref>Forbes, p442</ref>。
それから24時間も経たないうちにヴォロはベルリン「Z」地区(官庁街)において[[総統官邸]]目指して進撃する赤軍戦車をさらに4輌撃破し、ベルリン市街戦での個人戦車撃破記録を8輌に伸ばした。これを知った[[第11SS義勇装甲擲弾兵師団|「ノルトラント」師団]]長[[グスタフ・クルケンベルク]]SS少将(ベルリン到着後、「ノルトラント」師団長に就任)は、ヴォロを[[騎士鉄十字章]]受章候補に推薦した。
{{quote box|width=30%|align=right|quote=- Sur tous les champs de bataille du monde, les soldats français ont fait la preuve de leur bravoure. ''Unterscharführer'' Vaulot, restez fidèle à cette tradition...<br>「[[世界]]中の[[戦場]]で[[フランス軍|フランス兵]]はその勇敢さを証明した。ヴォロ[[親衛隊伍長|伍長]]はこの伝統を如実に受け継いでいる・・・」|source=[[グスタフ・クルケンベルク]]SS少将(1945年4月29日、[[ベルリン地下鉄]]市中央駅)<ref name="Mourir_a_Berlin_p222"/>}}
[[Image:RK EK.png|100px|right|thumb|[[騎士鉄十字章]]]]
1945年4月29日午後、[[ベルリン地下鉄]]市中央駅([[:de:U-Bahnhof Stadtmitte|U-Bahnhof Stadtmitte]])構内においてクルケンベルクは「短い[[ろうそく|ローソク]]のゆらめく光のなかで」<ref name="Beevor_Berlin"/>、「フランス人初の騎士鉄十字章受章者となることに喜びを隠せない」<ref name="Mourir_a_Berlin_p222"/>ウジェーヌ・ヴォロ武装伍長に[[騎士鉄十字章]]を授与した。授章式にはクルケンベルクの側近とヴォロの戦友たちも居合わせており、クルケンベルクは[[フランス語]]で短い演説を催し、ヴォロを褒め称えた<ref name="Mourir_a_Berlin_p222"/><ref name="Forbes_p447"/>。
そしてヴォロの周りには戦友たちが集まり、騎士鉄十字章を佩用したこの若いパリジャンを大いに祝福した<ref name="Agte_p164"/>。授章式の後、ヴォロは戦友の[[ピエール・ロスタン]][[親衛隊上級曹長|武装上級曹長]](''W-Hscha.'' Pierre Rostaing:フランスSS突撃大隊第3中隊長)に対して次のように言った<ref name="WSSFv2_Vaulot"/><ref name="Forbes_p447"/><ref>Pierre Rostaing '''« Le prix d'un serment »'''(réédition : Editions du Paillon, 2008)p190</ref>{{#tag:ref|出典は[[ピエール・ロスタン]]の回顧録 '''« Le prix d'un serment »'''<br>
*初版(La Table Ronde, 1975)p194
*新装改訂版(Editions du Paillon, 2008)p190<br>
しかし、ロスタンは回顧録の中でヴォロ(Vaulot)の綴りを « Volot » 、階級を「兵長」(caporal-chef)、死の状況を「彼は8輌目の敵戦車を攻撃中に戦死した」(il sera tué en abattant un huitièment char.)と誤って記している。また、[[:fr:Saint-Loup (écrivain)|Saint-Loup]]の著書 '''« Les Hérétiques »'''(Presses de la Cité, 1965)よると、ロスタンは自身が[[騎士鉄十字章]]を受章できなかったことを非常に悔しがったという<ref name="Forbes_p447"/>。|group=注}}。
{{Cquote|この勲章を手に入れる、その願いだけで俺は戦ってきた。それが果たされた今、俺はもう死んでもいい。<br
かくして念願の騎士鉄十字章を手に入れたヴォロ武装伍長であったが、この騎士鉄十字章受章者に新たな命令が与えられた。それは斥候班を率いてホテル・カイザーホーフ([[:de:Hotel Kaiserhof (Berlin)|Hotel Kaiserhof]])に向かい、クルケンベルクの司令部で用いるテーブル[[リネン]]を探せというものであった。
赤軍が周囲一帯を[[砲撃]]している中、地下鉄駅から地上に出た斥候班はホテルの廃墟に向かって全力で走り始めた。途中で上等兵1名が[[迫撃砲]]によって負傷して地下室に運ばれた(彼は3日後に捕虜となった)が、任務は続けられた。ホテルの廃墟から出て戻ってきた斥候班は大量の[[ナプキン|テーブルナプキン]]をクルケンベルクに届けたが、同時に持ち帰った上物の[[ワイン]]ボトル数本はクルケンベルクに見つからぬようにしていた<ref>
=== 1945年5月2日
[[ベルリン市街戦]]の最終局面である1945年5月1日から2日にかけての夜、ウジェーヌ・ヴォロ武装伍長は[[第11SS義勇装甲擲弾兵師団|「ノルトラント」師団]]長[[グスタフ・クルケンベルク]]SS少将が
[[シュプレー川]]を渡る際、クルケンベルクはベルリン出身で地理に明るい2名の将校を偵察として先発させたが、彼らは戻ってこなかった。そのため5月2日午前3時、クルケンベルクはフランス人義勇兵を率いて自ら偵察に向かった。クルケンベルク一行はシャリテ病院([[:de:Charité|Charité]])を通過しようとしたが、院長がソビエト赤軍の指揮下に入ることに同意して同病院は[[中立]]地帯と化していたため、彼らは行き先をショセー通り([[:de:Chausseestraße|Chausseestraße]])に変更した<ref>Tony Le Tissier
その後、クルケンベルクと共にシュプレー川を渡った者たちは[[小隊]]規模のいくつかのグループに分かれた。そのグループの1つは[[ヴィルヘルム・ヴェーバー (親衛隊隊員)|ヴィルヘルム・ヴェーバー]]SS中尉、[[フランソワ・アポロ]]とヴォロを含む12名ほどのフランス人義勇兵、ドイツ人SS兵士と[[スカンディナヴィア]]人義勇兵から成っていた。西を目指して進む彼らのグループには2輌のティーガー重戦車<ref group="注">原文表記は « two Tiger tanks. »(出典はSaint-Loupの著書p495)。[[ティーガーI|ティーガーⅠ
しかし、[[ティーアガルテン]]まで辿り着いた彼らは[[シャルロッテンブルク=ヴィルマースドルフ区|シャルロッテンブルク]]へ続く道を塞ぐ[[赤軍]]の強固な抵抗に遭遇した。この戦闘でティーガー戦車2輌は敵陣の突破に成功したが、ウジェーヌ・ヴォロ武装伍長は赤軍[[狙撃兵]]の[[銃弾]]<ref name="WSSFv2_Vaulot"/><ref name="
== キャリア ==
=== 党員・隊員番号 ===
*{{
*[[ファイル:Flag Schutzstaffel.svg|26px]] [[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]]隊員番号(SS-Nr.):無し
=== 階級 ===
==== ドイツ陸軍反共フランス義勇軍団 ====
*[[ドイツ軍の階級#ドイツ国防軍(1935年~1945年) |上級伍長]](Obergefreiter)もしくは[[軍曹]](Sergeant)<ref name="
==== ドイツ海軍 ====
==== 武装親衛隊 ====
*1944
=== 勲章 ===
==== ドイツ陸軍反共フランス義勇軍団 ====
*[[東部戦線従軍記章]](1942年秋)
*[[二級鉄十字章]](1942年
==== ドイツ海軍 ====
==== 武装親衛隊 ====
*[[一級鉄十字章]](1945年2月25日)
*'''[[騎士鉄十字章]](1945年4月29日)''' <small>※[[ヨーロッパ]]における[[第二次世界大戦]]末期の1945年4月末・[[ベルリン市街戦]]で[[騎士鉄十字章]]授与を約束された数名の[[武装親衛隊]][[フランス人]][[義勇兵]]のうち、戦時中に実際に騎士鉄十字章を拝受・佩用した唯一のフランス人<ref name="WSSFv2_Vaulot"/>。</small>
== 脚注・出典 ==
;脚注
{{reflist|group=注}}
{{
== 文献 ==
=== 英語 ===
*Robert Forbes '''
*Richard Landwehr '''
*Tony Le Tissier '''
=== ドイツ語 ===
*Patrick Agte '''
*Ernst-Günther Krätschmer '''
**Coburg, Deutschland : NATION EUROPA VERLAG, 2003.(第5版) ISBN 3-920677-43-9
**Gedruckt, Österreich : Edition Zeitgeschichte, 2012.(第6版:2012年度新装改訂版) ISBN 978-3-942145-14-5
=== フランス語 ===
*Jean Mabire '''
*Jean Mabire '''
*
*Georges Bernage '''« BERLIN 1945 - L'agonie du Reich »''' HEIMDAL, 2010. ISBN 978-2-84048-262-8
*Grégory Bouysse '''
*Grégory Bouysse '''« Waffen-SS Français volume 2 »''' lulu, 2011. ISBN 978-1-4709-2911-4 [http://www.lulu.com/product/paperback/waffen-ss-fran%c3%a7ais-volume-2/17435136]
=== 日本語 ===
*アントニー・ビーヴァー(著), Antony Beevor(原著), 川上 洸(訳) '''『ベルリン陥落 1945』'''(白水社
*ヴィル・フェイ(著), Will Fey(原著), 梅本弘(翻訳) '''『SS戦車隊・下』'''(大日本絵画
*高橋慶史'''『続 ラスト・オブ・カンプフグルッペ』'''(大日本絵画
== 関連項目 ==
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;所属組織
*[[ドイツ陸軍 (国防軍)|ドイツ陸軍]]
**[[反共フランス義勇軍団]]([[:fr:Légion des volontaires français contre le bolchevisme|LVF]])
*[[ドイツ海軍 (国防軍)|ドイツ海軍]]
**第28海軍基幹(訓練)大隊
*[[武装親衛隊]]
**[[第33SS武装擲弾兵師団|第33SS所属武装擲弾兵師団「シャルルマーニュ」]]
**[[フランスSS突撃大隊]]
;戦闘
*[[第二次世界大戦]]
**1941年末~1943年初旬 [[独ソ戦|東部戦線]]・[[白ロシア]]
**1945年2月下旬 [[東ポメラニア攻勢|ポメラニア戦線]]([[:en:East Pomeranian Offensive|Pomerania 1945]])
**1945年4月末 [[ベルリン市街戦]]
;人物
*[[フランソワ・アポロ]]武装曹長
*[[ロベール・スーラ]]武装兵長
*[[ヴィルヘルム・ヴェーバー (親衛隊隊員)|ヴィルヘルム・ヴェーバー]]SS中尉
*[[グスタフ・クルケンベルク]]SS少将
*[[ピエール・ロスタン]]武装上級曹長
<small>[[#top|先頭へ移動する]]</small>
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