「安藝ノ海節男」の版間の差分

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|生年月日 = [[1914年]][[5月30日]]
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1914|5|30|1979|3|25}}
|出身 = [[広島県]][[広島市]]宇品町<br/>(現・[[広島市]][[南区 (広島市)|南区]]宇品御幸)
|身長 = 177cm
|体重 = 127.5kg
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|現在の番付 = 引退
|最高位 = 第37代[[横綱]]
|生涯戦歴 = 209勝101敗38休(32(32場所)
|幕内戦歴 = 142勝59敗38休(18(18場所)
|優勝 = 幕内最高優勝1回<br>序ノ口優勝1回
|賞 =
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|他の活動 =
|趣味 =
|備考 = [[金星 (相撲)|金星]]1個([[双葉山定次|双葉山]]1個
|作成日時 = [[2013年]][[26259]]
}}
'''安藝ノ海 節男'''(あきのうみ せつお、[[1914年]][[5月30日]] - [[1979年]][[3月25日]])は、[[広島県]][[広島市]]宇品町(現・広島市南区宇品御幸)出身の元[[大相撲]][[力士]]。本名は'''永田 節男'''(ながた たかお)。身長は177cm、体重は127.5kg。得意技は左四つ、寄り、外掛け
 
[[双葉山定次]]の70連勝を阻止した「世紀の一番」で知られる。四股名は「せつお」だが本名は「たかお」と読む。
 
== 経歴 ==
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食料品商の家に生まれ、宇品尋常高等小学校を卒業後は家業を手伝う。[[1931年]]に市内で開催された関西中学校相撲選手権を観戦したところ、[[常ノ花寛市|藤嶌]]にスカウトされて角界入り。[[1932年]]2月場所に[[出羽海部屋]]から“永田”の四股名で初土俵を踏む。序二段で「安藝ノ海」と改名すると、順調に昇進して[[1936年]]1月場所に新十両、[[1938年]]1月場所では、23歳で新入幕を果たした。
 
当時の出羽海部屋では、「打倒双葉」を目指して場所ごとに作戦会議を開いたという。その中から「どうやら双葉山は右に食い付かれるのを嫌がる」「無理な投げを打って体勢を崩すこともあるので、そこを掬うか足を掛けるかしてはどうか」という作戦が[[笠置山勝一]]を中心に生まれた。笠置山は当時としては非常に珍しい大卒([[早稲田大学]])卒業の「インテリ力士」で、笠置山自身が著した「横綱双葉山論」でも取り上げられた。また、それまで何度も双葉山と対戦したことのある力士では弱点も知られていることもあり、入幕して初の上位挑戦であり、かつ前年の満州巡業時に双葉山から稽古相手に指名されながらも体調不良で断り、その夜のうちに入院([[虫垂炎|盲腸炎]]だと伝わる)して、結果的に稽古でも取り組んだことのない安藝ノ海が「打倒双葉」の期待を担うことになった。
 
また、それまで何度も双葉山と対戦したことのある力士では弱点も知られていることもあり、入幕して初の上位挑戦であり、かつ前年の満州巡業時に双葉山から稽古相手に指名されながらも体調不良で断り、その夜のうちに入院([[虫垂炎|盲腸炎]]だと伝わる)して、結果的に稽古でも取り組んだことのない安藝ノ海が「打倒双葉」の期待を担うことになった。
 
=== 世紀の一番 ===
[[1939年]]1月場所4日目(1939年1月15日)、[[軍配]]が返るや突っかけた安藝ノ海は頭を下げながら突っ張った。双葉山も小刻みに[[突っ張り]]返して応戦し、得意の右差しに持ち込み右を覗かせてきた。左差しで食い下がろうと考えていた安藝ノ海は目論見が外れたが、逆に右前褌を取って食い下がる型に入った。両廻しを取れない双葉山は強引に右から掬ったが、逆に腰が伸びた。
 
土俵下力士溜まりの笠置山勝一は心中、「今だ、今だ!」と絶叫したという。なかなか安藝ノ海の脚が飛ばず、後年「あれだけ入念に作戦を練って、まさにその通りになってもなかなか思い通りに行かないから相撲は判らない。あの安藝ノ海をしてそうなのだから」と述懐したが、ついにその左外掛けで双葉山の牙城を崩し、二回目の[[掬い投げ]]を打とうと双葉山が右足を踏み込んだ瞬間、安藝ノ海の左足が飛んだ。ぐらついた双葉山が掛けられた足を振り払って起死回生の右[[下手投げ]]を打つが、安藝ノ海は右足一本でこらえて体を浴びせ、遂に双葉山が土俵中央に倒れた。
 
世紀の一瞬に、両国国國國技館は比喩でなく大鉄傘が大歓声によって震えたという。この取の実況を担当していた[[和田信賢]]は、後ろの席にいた控えアナウンサーに「双葉負けたね?確かに負けたね?」と繰り返し確認した後、「'''双葉敗る!双葉敗る!双葉敗る!時に昭和14年1月15日旭日昇天まさに69連勝70連勝を目指して躍進する双葉山、出羽一門の新鋭・安藝ノ海に屈す!双葉70連勝ならず!まさに70、古来やはり稀なり!'''」と絶叫した。
 
かくて安藝ノ海は双葉山の70連勝を阻止し、一躍英雄となる。当時の両国国技館から[[出羽海部屋]]までは通常は徒歩5分ほどだったが、この日は双葉山を倒した英雄を一目見ようと詰めかけた大観衆にもまれたことで部屋まで30分もかかり、到着時に足元を見ると雪駄が片方消えていたという。故郷の広島には「オカアサンカツタ」の電報を打ち、実家には直接電話をして勝利を報告した(実家ではラジオで勝利の報を聞いた家族が、全員で万歳している写真が新聞に載った)。この時、[[両國梶之助 (國岩)|出羽海]]や、入門の時世話になった藤嶌からは、「'''勝って褒められるより、負けて騒がれるようになれ'''」と諭された。
 
この「世紀の一番」は大相撲史上で最初の[[号外]]として伝えられたと言われているが、この号外の紙面は現存しない。
 
=== 横綱昇進 ===
「双葉山に勝った自分がみっともない相撲は取れない」と稽古に励み、[[1940年]]1月場所で[[関脇]]に昇進。同年5月場所、14勝1敗で初優勝した(優勝はこの1回だけ)。場所後、同部屋の[[五ツ嶌名良男]]と同時に[[大関]]に昇進した。[[1943年]]1月場所後、[[照國萬藏]]と同時に横綱へ昇進。「'''横綱になれたのは、あの一番があったからです'''」と述懐した一方で、何とかもう一度と挑んだ双葉山にはその後9連敗と二度と勝てなかった。現役を通して唯一の[[金星 (相撲)|金星]]は双葉山を倒した一番だった。また幕内在位18場所で皆勤して[[負け越し]]たのは実質の最終場所になった[[1945年]]11月場所と、双葉山を倒した場所だけだった。1946年11月場所を持って現役引退
 
現役を通して唯一の[[金星 (相撲)|金星]]は双葉山を倒した一番だった。また幕内在位18場所で皆勤して[[負け越し]]たのは実質の最終場所になった[[1945年]]11月場所と、双葉山を倒した場所だけだった。1946年11月場所を持って現役引退。
 
=== 引退後~晩年 ===
引退後は[[常ノ花寛市|藤嶌]]の娘と結婚し、年寄・[[不知火 (年寄名跡)|不知火]]を襲名(後に[[藤島 (相撲)|藤嶋]]を継承)して、相撲協会の理事に就任した。当然、次期出羽海の有力候補だったが、自身の離婚問題で平年寄に降格されると[[1954年]]をもって廃業した。
 
廃業後は東京・八重洲で相撲料理店、東中野でアパート、北鎌倉で洋品店を経営し、大相撲中継のゲスト解説に度々登場した。[[1974年]]に還暦を迎えたが、[[還暦土俵入り]]は行われなかず、使用する予定だった赤い綱の所持も不明である。1979年3月25日、[[うっ血性心不全]]のため[[鎌倉市]]の病院で死去。{{没年齢|1914|5|30|1979|3|25}}。
 
== 人物 ==
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* どういう理由なのかは不明だが、[[1944年]]以降は引退まで逆に縒った綱を締めていた。
* 安藝ノ海の実家は、広島市の海岸沿い、[[宇品港]]の近くにあった。戦時中、[[大日本帝国陸軍]]の兵隊は全てこの港から外地へ送られた。実家で母親が長らく[[駄菓子屋]]を営み、近所の子供達の溜まり場となっていたが、[[広島高速3号線]]の建設による立ち退きで消失した。
* 双葉山の69連勝中、漫画家の[[近藤日出造]]は新聞で「今日の双葉山にいどむ者」という連載を持っていて、場所中は双葉山と対戦する力士に取材していた。昭和141939年1月場所初日、双葉山と当の対戦相手だっ[[五ツ嶋奈良男]]が近藤の取材に答えて「オレなんかダメだが、'''うちの安藝ノ海は面白いよ'''」と語ったことも、後「世紀の予言」と語り草になった。
 
== 主な成績 ==
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* 大関在位:4場所
* 三役在位:2場所(関脇2場所、小結なし)
* 金星:1個([[双葉山定次|双葉山]]1個
* 各段優勝
** 幕内最高優勝:1回(1940年1月場所)
** 序ノ口優勝:1回 (1932(1932年10月場所)
=== 場所別成績 ===
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