「ロシア・ツァーリ国」の版間の差分

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ロシアの軍事的関心がリヴォニアに集中していることを利用し、[[1571年]]に[[クリミア・ハン国|クリミア]]の支配者[[デヴレト1世ギレイ|デヴレト・ギレイ]]([[:en:Devlet I Giray|en]])は12万人もの騎兵を率いて繰り返しモスクワを攻撃し([[:en:Fire of Moscow (1571)]]、{{仮リンク|ロシア・クリミア戦争|en|Russo-Crimean Wars}})、1572年の{{仮リンク|モロディの戦い|en|Battle of Molodi}}までロシアへの攻撃は続いた。さらに続く数十年にわたって、南部の国境地帯は[[ノガイ・オルダ]]および[[クリミア・ハン国]]の掠奪を受け、地域住民たちが連行されて彼らの奴隷にされた。南部の防衛線({{仮リンク|ザセチナヤ・チェルタ|en|Zasechnaya cherta}})の管理・警備には年間数万人の兵士の配備を要し、この負担はロシアを消耗させて社会的・経済的発展を阻害していた。
 
=== イヴァン4世のオプリーチニナ ===
''詳細は「[[オプリーチニナ]]」を参照''
[[ファイル:Strorus gorod.jpg|thumb|180px|[[アポリナリー・ヴァスネツォフ]]「ロシアの古い町」]]
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通説によれば、オプリーチニナ体制は戦争への人的・物的資源の動員と、戦争反対の声を押さえつけることを目的としていた。このような理由であれ、イヴァンの国外・国内政策はロシアを荒廃させ、'''スムータ'''('''大動乱'''、1598年 - 1613年)と呼ばれる社会紛争と内戦を引き起こすことになった。
 
=== ボリス・ゴドゥノフ ===
[[ファイル:Russia1600.png|thumb|250px|東に拡大するロシア(1600年頃)]]
 
[[1584年]]にイヴァン4世の後継者となったのは、知的障害のある息子[[フョードル1世]]だった。事実上の政治権力はツァーリの妻の兄である大貴族[[ボリス・ゴドゥノフ]]の手に渡った(ボリスは農民が年に1度だけ移動の自由を与えられて仕える領主を変えられる[[聖ユーリーの日]]を廃止したと信じられている)。フョードルの治世においておそらく最も重要な出来事は、[[1589年]]、[[モスクワ総主教|モスクワ総主教座]]設置である。総主教座の創設はロシア正教会の分離と完全独立を目指す運動が、頂点に達したことを示していた。[[1590年]]の{{仮リンク|ロシア・スウェーデン戦争 (1590年-1595年)|en|Russo-Swedish War (1590–1595)|label=ロシア・スウェーデン戦争}}で[[フィンランド湾]]沿岸部を回復。[[イェルマーク]]の敗死([[1585年]])後、再び{{仮リンク|西シベリア|de|Westsibirien}}への進出を再開し、[[1598年]]に[[シビル・ハン国]]を滅亡させた。
 
1598年にフョードル1世が後継者を残さずに死去し、モスクワの[[リューリク朝]]は断絶した。ボリス・ゴドゥノフはボヤーレ、高位聖職者、一般人からなる国家議会[[ゼムスキー・ソボル]]を招集し、自身をツァーリに選出させたが、多くのボヤーレ派閥が彼のツァーリ即位への承認を拒んだ。また大規模な収穫不足が{{仮リンク|ロシア飢饉 (1601年-1603年)|en|Russian famine of 1601–1603|label=ロシア大飢饉}}([[1601年]] - [[1603年]])を引き起こし、ロシア社会に不満が鬱積する中で、1591年に死んだはずのイヴァン4世のもう一人の息子[[ドミトリー・イヴァノヴィチ (ウグリチ公)|ドミトリー]]を名乗る男が現れた。後に[[偽ドミトリー1世]]として知られることになるこの僭称者は、ポーランドの支援を受けてロシアに攻め込み、進軍するうちにボヤーレやその他の勢力からの支持を得るようになった。歴史家は、1605年にゴドゥノフが死ななければこの危機を乗り越えることが出来ただろうと考えている。結局、偽ドミトリー1世はモスクワに入城してゴドゥノフの息子[[フョードル2世]]を殺し、ツァーリとして戴冠した
 
== 大動乱 ==
''詳細は「[[動乱時代]]」を参照''
[[ファイル:Russia1600.png|thumb|250px|東に拡大するロシア(1600年頃)]]
[[ファイル:Zastava.jpg|thumb|250px|南部国境の風景]]
イヴァン4世の後継者となったのは、知的障害のある息子[[フョードル1世]]だった。事実上の政治権力はツァーリの妻の兄である大貴族[[ボリス・ゴドゥノフ]]の手に渡った(ボリスは農民が年に1度だけ移動の自由を与えられて仕える領主を変えられる[[聖ユーリーの日]]を廃止したと信じられている)。フョードルの治世においておそらく最も重要な出来事は、1589年の[[モスクワ総主教|モスクワ総主教座]]の設置である。総主教座の創設はロシア正教会の分離と完全独立を目指す運動が、頂点に達したことを示していた。
 
[[ファイル:Zastava.jpg|thumb|250px|南部国境の風景]]
1598年にフョードル1世が後継者を残さずに死去し、モスクワの[[リューリク朝]]は断絶した。ボリス・ゴドゥノフはボヤーレ、高位聖職者、一般人からなる国家議会[[ゼムスキー・ソボル]]を招集し、自身をツァーリに選出させたが、多くのボヤーレ派閥が彼のツァーリ即位への承認を拒んだ。また大規模な収穫不足が{{仮リンク|ロシア飢饉 (1601年-1603年)|en|Russian famine of 1601–1603|label=ロシア大飢饉}}を引き起こし、ロシア社会に不満が鬱積する中で、1591年に死んだはずのイヴァン4世のもう一人の息子[[ドミトリー・イヴァノヴィチ (ウグリチ公)|ドミトリー]]を名乗る男が現れた。後に[[偽ドミトリー1世]]として知られることになるこの僭称者は、ポーランドの支援を受けてロシアに攻め込み、進軍するうちにボヤーレやその他の勢力からの支持を得るようになった。歴史家は、1605年にゴドゥノフが死ななければこの危機を乗り越えることが出来ただろうと考えている。結局、偽ドミトリー1世はモスクワに入城してゴドゥノフの息子[[フョードル2世]]を殺し、ツァーリとして戴冠した。
 
結局、偽ドミトリー1世はモスクワに入城してゴドゥノフの息子[[フョードル2世]]を殺し、ツァーリとして戴冠した。その後、ロシアは[[動乱時代|大動乱]]({{lang|ru|Смутное Время}})として知られるうち続く混乱の時代に入った。ツァーリによるボヤーレへの迫害、都市民の抑圧、徐々に進む小作農たちの農奴への転落といった、権力保有者をツァーリのみ限定させ集中させるための国家的努力は、多くの社会勢力にとって快いものではなかった。専制政治に代わる体制を生みだせないまま、不満なロシア人たちは次々に現れる僭称者たちの下に結集した。この時期、政治的活動の最終目標はその時の専制者に対する影響力を獲得するか、専制者そのものにとって代わることであった。ボヤーレは内輪もめを続け、下層階級は無定見に反乱を起こし、外国軍が首都モスクワの[[クレムリン]]を占拠した。こうした状況は、[[ツァーリズム]]こそがロシアの秩序と一体性を回復するのに必要な体制であると、多くの人々に信じさせる素地をつくることになった。
 
大動乱は、ツァーリの座を巡って互いに対立するボヤーレ派閥による陰謀や、[[ポーランド・リトアニア共和国|ポーランド]]や[[スウェーデン]]といった近隣諸国の介入、{{仮リンク|イヴァン・ボロトニコフ|en|Ivan Bolotnikov}}の率いる民衆の中の過激不満分子などによる、内戦の様相を呈していた。偽ドミトリー1世と彼を支えるポーランド軍守備隊は滅ぼされ、ボヤーレの一人[[ヴァシーリー・シュイスキー]]が1606年にツァーリとなった。自らの地位を維持するためにシュイスキーはスウェーデンと同盟を結び、このことが{{仮リンク|イングリア戦争|en|Ingrian War}}を引き起こすことになった。続いて現れた僭称者[[偽ドミトリー2世]]はやはりポーランド人と結託し、モスクワの城壁にまで迫り、{{仮リンク|トゥシノ|en|Tushino}}の村に偽宮廷を組織した。