「ウィリアム・ミッチェル」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
26行目:
 
==生涯==
1879年12月28日[[フランス]]のニースで生まれる。ミルウォーキーで育ち18歳でウィスコンシン州歩兵志願兵の二等兵として入隊する。米国陸軍で最年少の23歳で大尉になった。この間に陸軍通信隊として、キューバ、1899年[[フィリピン革命]]、1901年アラスカで活動する。1913年最年少のワシントンの陸軍省部員となる。1916年陸軍通信隊の航空部門で飛行訓練を行う<ref name=AviationHOF>{{cite web|title=William "Billy" Mitchell|url=http://www.nationalaviation.org/mitchell-william/|publisher=National Aviation Hall of Fame|accessdate= 2013年6月9日}}</ref>。
 
1917年[[第一次世界大戦]]のアメリカ参戦が決定する。この戦争でミッチェルは敵地を飛行したアメリカ初の飛行将校となる。ミッチェルは遠征軍の航空将校としてアメリカ初の航空隊である[[ハット·イン·ザ·リング隊]]を組織する。また単独で偵察任務を行いドイツに対する奇襲成功に大きな貢献をした<ref name=AviationHOF>{{cite web|title=William "Billy" Mitchell|url=http://www.nationalaviation.org/mitchell-william/|publisher=National Aviation Hall of Fame|accessdate= 2013年6月9日}}</ref>。
陸軍通信隊に[[少尉]]として配属され、[[キューバ]]、[[フィリピン]]、[[アラスカ]]に赴任。参謀大学校を卒業後、1913年に陸軍参謀本部で最年少の部員となる。1916年には臨時で陸軍航空部の長に就いた。ミッチェルは[[ライト兄弟]]の飛行を見て航行機に関心を持っていた。1915年から翌年にかけて[[グレン・カーチス]]の飛行学校で操縦訓練を受けている。[[第一次世界大戦]]へのアメリカ参戦が決定した1917年には、アメリカ遠征航空隊の司令官として渡仏。1918年にサン・ミールの戦いで1,500機の部隊を指揮し、ミューズ・アルゴンの戦役では200機の爆撃機を指揮した。この功績で米国だけでなく同盟国からも勲章を受ける。
 
第一次世界大戦が終結してからは陸軍航空隊の副司令官に就き、[[空軍力]]の重要性や独立[[空軍]]の創設を強く主張。
 
1917年「イギリス諸島はいつか大量の空中攻撃に対して脆弱になる」、1919年「空挺部隊は壊滅的効果がある敵地の背後へ侵入できる」1920年「ドイツの軍国主義が世界を脅かす」1925年「日本は太平洋で戦争を引き起こす。はじめに晴れた日曜日の朝にハワイを叩くことでアメリカに攻撃する」と予見する<ref name=AviationHOF>{{cite web|title=William "Billy" Mitchell|url=http://www.nationalaviation.org/mitchell-william/|publisher=National Aviation Hall of Fame|accessdate= 2013年6月9日}}</ref>。
1920年晩春、アメリカ初の国立航空研究所である[[ラングレー記念航空研究所]]が開設するとミッチェルは25機の戦闘機隊を率いて上空で派手なショーを行い観客を魅了した<ref>マイケルゴーン『NASA―The Complete Illustrated History』トランスワールドジャパン12頁</ref>。
 
1925年、[[飛行船]][[シェナンドー (飛行船)|シェナンドー (ZR-1)]]が悪天候で墜落し友人を失ったミッチェルは「勇敢な飛行士が安全を処置しない無知な提督に死へ送られた」「無能、犯罪、国防の反逆者」と罵った。このため[[カルビン・クーリッジ]]大統領はこの反抗を軍法会議にかけた。判決は軍法96条により有罪となり、5年間の停職処分を受けた。唯一、少年時代からの友人である[[ダグラス・マッカーサー]]は反対した<ref name=AviationHOF>{{cite web|title=William "Billy" Mitchell|url=http://www.nationalaviation.org/mitchell-william/|publisher=National Aviation Hall of Fame|accessdate= 2013年6月9日}}</ref>。
1921年から1923年にかけて老朽戦艦への爆撃実験を行なう等、軍首脳部へ挑戦状を叩き付けた。更には陸海軍の保守的な態度を「無能、職務怠慢」と痛烈に公の場で批判したが為に陸海軍の反発を買う。1925年、ミッチェルは[[飛行船]][[シェナンドー (飛行船)|シェナンドー (ZR-1)]]墜落の責任を取る形で[[軍法会議]]にかけられ、5年間の停職処分を受けた。翌1926年に除隊する。除隊時の階級は准将。
ミッチェルは1926年に除隊する。除隊時の階級は准将。
 
除隊後は[[バーモント州]]の生家へ戻った。航空問題の啓蒙活動に携わり、[[戦略爆撃]]の効果などを論じる。
 
除隊後は[[バーモント州]]の生家へ戻る。
1930年「将来、子供たちは生活において航空機を世界中の防衛や輸送の最大の手段とみるようになるだろう」と語った<ref name=AviationHOF>{{cite web|title=William "Billy" Mitchell|url=http://www.nationalaviation.org/mitchell-william/|publisher=National Aviation Hall of Fame|accessdate= 2013年6月9日}}</ref>。
 
1936年2月19日死去<ref name=AviationHOF>{{cite web|title=William "Billy" Mitchell|url=http://www.nationalaviation.org/mitchell-william/|publisher=National Aviation Hall of Fame|accessdate= 2013年6月9日}}</ref>。1946年アメリカ政府はミッチェルの功績と先見の明を認め、少将に任命するとともに、[[議会名誉黄金勲章]]を授けた。
 
== 著書 ==