「ケルン大聖堂」の版間の差分
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[[ファイル:Koelner Dom.jpg|thumb|180px|right|正面外観]]
[[ファイル:Koelner Dom Innenraum.jpg|thumb|180px|right|内観]]
'''ケルン大聖堂'''(ケルンだいせいどう、[[ドイツ語|独]]:'''Kölner Dom''')は、[[ドイツ]]の[[ケルン]]にある[[ゴシック様式]]の[[大聖堂]]。正式名称は、'''ザンクト・ペーター・ウント・マリア大聖堂'''('''Dom St. Peter und Maria'''。聖ペトロとマリア大聖堂の意)。ゴシック様式の建築物としては世界最大であり、
== 歴史 ==
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[[2005年]][[8月18日]]には[[ローマ教皇]][[ベネディクト16世 (ローマ教皇)|ベネディクト16世]]が自ら大聖堂を訪問している。
== 維持、管理==
{{Main|ケルン大聖堂中央建築協会}}
ケルン大聖堂の維持管理費用は最近年間約1000万ユーロに達している。[[ケルン大聖堂中央建築協会]]が維持管理費用の約60%を負担し、残りの40%はドイツ連邦政府と地元州、教会が担っている。この協会は超党派、超教派であり、[[ローマ・カトリック教会]][[ケルン大司教]]区には属さない独立組織である。大きな補修工事が発生した場合、費用はこの協会が主として担うのであり、カトリック教会に大きな負担を強いることはない。したがって、現在のケルン大聖堂は公共的建築物としての性格を強く持っている。
ケルン大聖堂中央建築協会は大聖堂を建設するための公法人として、1840年に[[プロイセン王]] [[フリードリヒ・ヴィルヘルム4世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム4世 ]]によって設立を許可されている。1842年から1880年までケルン大聖堂中央建築協会は約6,5百万ターラーを大聖堂建築費用として負担した(20百万金マルク、今日の価値に直すと11億ユーロ相当になる)。この負担金額はケルン大聖堂建築に要した費用の約75%であった。[[プロイセン王国]]による[[ラインラント]]地方の併合によって、ケルンは世俗化され、ケルン大聖堂の管理もローマ・カトリック教会ケルン大司教区からプロイセン王国に移行した。ケルン大聖堂の建築再開もプロイセン王の裁可によっておこなわれており、ケルン大聖堂はプロイセンによる[[ドイツ統一]]を象徴する建物に変化した。ケルン大聖堂中央建築協会に関する政令は、現在の[[ドイツ連邦共和国]]においても有効であり、ケルン大聖堂に関するプロイセン王国の役割をドイツ連邦政府が引き継いでいる。
== 建築様式 ==
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