「ファイサル1世 (イラク王)」の版間の差分

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ファイサルの人的魅力と鋭い感性は、イラクでの自らの権威確立に貢献したが、その鋭い感性はその晩年に彼の築こうとした国家の、不安定な基盤を形成する分裂した社会を熟慮した際、彼を絶望させたという。
 
[[1933年]]、その前年に国連の自治権承認に失敗した[[アッシリア東方教会|ネストリウス派キリスト教徒]]の[[アッシリア人]]とイラク軍とのいざこざが起こった。アッシリア人が長期にイギリス軍と関係があったこともあり、このアッシリア人の自治運動がイギリスの仕業と信じ込まれた末、同年8月に[[バクル・シドキ]]率いるイラク軍と[[クルド人]]によるアッシリア人の虐殺([[:en:Simele massacre]])が起こった。国内ではバクル・シドキとイラク軍を歓迎したが、この事件によりファイサルは体調を悪化させ、同年9月にスイスに療養に向かうが、同地に到着して1週間を経ずに死去した。臨終は{{仮リンク|[[ヌーリー・アッ=サイード|en|Nuri as-Said}}]]と[[ルストム・ハイダル]]が立ち会ったという。
 
== 逸話 ==
* アラブの反乱にファイサルの部下として参加した{{仮リンク|[[ヌーリー・アッ=サイード|en|Nuri as-Said}}]]と{{仮リンク|ジャアファル・アル=アスカリー|en|Jafar al-Askari}}は、初めオスマン軍に属していたが、イギリスの捕虜となって後、志願してアラブ反乱に参加した。ファイサルのイラク王即位以降、イラク閣僚を歴任する。ヌリーはパリ講和会議の時、ファイサルに同行している。アスカリーはファイサルの信頼が厚く、ファイサルをイラク王に内定したカイロ会議にイラク代表の一人として参加した。彼らを初めとしたメソポタミア出身の旧オスマン軍士官がイラク王政の中核となる。
* ファイサルの参謀総長で、後に首相となる{{仮リンク|ヤースィーン・アル=ハーシミー|en|Yasin al-Hashimi}}はファイサルを好んでなかったという。
* 秘密結社{{仮リンク|アル=ファタート|en|Al-Fatat}}のメンバーだったナシブと[[ルストム・ハイダル]]、{{仮リンク|アウニ・アブドゥル=ハーディル|en|Awni Abd al-Hadi}}、[[タフシン・カドリ]]は1919年のパリ講和会議に出席したファイサルの随員として同行した。