「大秦寺」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m ボット: 言語間リンク 2 件をウィキデータ上の d:Q13417194 に転記
Kiku b (会話 | 投稿記録)
→‎来歴: AWW 長期間出典の明示が無い記述の除去
3行目:
 
==来歴==
中国への景教の伝来は、唐代貞観9年([[635年]])、ネストリウス派宣教団が長安に到着したことから始まる。このとき[[太宗 (唐)|太宗]]の命により、宰相の[[房玄齢]]が宣教団の団長[[阿羅本]](アラホン、アロベン。英語ではAlopenと表記)を迎えた(『[[唐会要]]』)。 阿羅本はアッシリア東方教会の使いとして訪れたといわれる(大秦景教流行中国碑)。時の宰相が出向いていることを考えると、少なくとも朝廷に対する何らかの働きかけを行った者が、既に長安で活動していた可能性が高い。これほどの高官の歓待を受けたことより、宣教団には西域の何処かの国([[サーサーン朝]]ペルシアが有力か)からの外交使節的な意味合いが含まれていたとも考えられている{{要出典|date=2011年3月}}
 
3年後の貞観12年([[638年]])に景教は唐により公認され、唐朝は資金を援助し、長安に寺院が建立された。この段階では'''波斯寺'''(あるいは'''波斯経寺'''、波斯は[[ペルシア]]のこと)と呼ばれており、「大秦寺」の名称は使われていなかった。