「相合元綱」の版間の差分

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弘元の妾腹の子として生まれる。武勇に秀でた武将で「今義経」の異名を取ったと伝わる。[[永正]]14年([[1517年]])の[[有田中井手合戦]]で、次兄の元就と共に[[武田元繁]]を討つなどの活躍を見せた。また、元就とも仲が良かったといわれる。
 
大永3年([[1523年]])、甥(興元の子)で当主であった[[毛利幸松丸]]が9歳で病死すると、異母兄で正室の子である元就が後継者となることが決定した。これに対し、[[坂広秀]]・[[渡辺勝 (戦国武将)|渡辺勝]]らが、元綱を当主に擁立しよう画策した。一説には、[[尼子豊久]]を毛利氏の娘婿として当主に立て、元綱は後見人となる予定であったとも言われる。元綱らは元就の暗殺を計画したが、それに気付いた元就は先手を打ち、[[志道広良]]に300の兵を率いさせて元綱居城の船山城を急襲させた(『[[陰徳記]]』によると対する元綱の手勢殺害30名余りとれる)。武勇に優れる元綱は広良の軍勢を押し返すばかりの抵抗を示すが、最後には体中を射抜かれた後に槍で刺されたと言われる。また、別説では尼子氏の謀略により憤死したとも伝わる。その没年には、大永3年([[1523年]])8月から大永5年([[1525年]])3月の間で、諸説ある。
 
没年についても大永3年([[1523年]])8月から大永5年([[1525年]])3月の間で、諸説ある。
 
元綱派は尼子氏の有力家臣の[[亀井秀綱]]を後ろ盾としており、この内紛に[[尼子経久]]の意志が絡んでいることは明白であったため、元綱殺害後、元就は尼子氏から離反し[[大内氏]]への接近を図るようになった。
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子の元範は幼少であったため、罪を許された。後に敷名を名字とし、備後地方を拠点とする毛利家臣となった。
 
なお、元就には、子の[[毛利隆元|隆元]]、[[吉川元春]]、[[小早川隆景]]に兄弟の絆を大切にするように諭したという逸話([[三子教訓状]])が伝わるが、それはこうした悲劇を経験したからであると言われている。
 
== 登場作品 ==