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玉井兄弟(たまいきょうだい)は日本のライト兄弟と言われた飛行機兄弟民間飛行機の草分けの時代に活躍した。現在の三重県四日市市諏訪栄町の出身で、四日市市内で飛行機の自作に取り組んだ。第2小学校(現在の四日市市立浜田小学校)の校庭をしようして飛行機の組み立てをした記録が残っている。[1]

玉井清太郎(たまいせいたろう)

  • 1892年(明治25年)-1917年(大正6年) 大正時代に活躍した民間の飛行家。
  • 1892年(明治25年)6月11日生まれ。玉井藤一郎の兄。1916年(大正5年)に東京府の羽田の穴守に日本飛行学校を設立(のちの羽田飛行場)を創設して初代校長となった。技術者と飛行士の育成に努めた。大正6年日本初の3人乗りプロペラ機「玉井式3号機」を製作した。同年の5月20日東京市の中心部を訪問する飛行中に着陸する寸前で芝浦海岸で墜落死した。25歳の若さで亡くなり、航空界の新犠牲と云うニュースが全国を駆け巡った。三重県四日市市出身。[2]

玉井藤一郎( たまいとういちろう)

  • 1894年(明治27年)-1978年(昭和53年) 大正時代-昭和時代の民間飛行家。
  • 1894年(明治27年)9月6日生まれ。東京で飛行中に墜落死した兄玉井清太郎の飛行機開発の遺志をついで,兄の追善飛行を行い、1919年(大正8年)に飛行に成功した。四日市の上空を迂回する姿は、新たな空の英雄誕生を印象付けた。その後兄の飛行学校を継承して、日本飛行機製作所付属飛行学校と練習所を羽田に整備して、羽田飛行場の基礎を作った日本航空界の父である。1918年(大正7年)羽田飛行機研究所を設立した。10年横浜市生麦に玉井飛行場をうつし,宣伝飛行と操縦士の養成にあたった。1978年(昭和53年)2月11日建国記念日)に死去した。享年83歳。三重県四日市市出身。名はのちに玉井照高(てるたか)を名乗った。[3]

概要

  • 玉井清太郎(1892年1917年)は、四日市市の東海道沿いの四日市市諏訪栄町に生まれた。四日市市浜田出身の飛行家である。玉井兄弟は浜田尋常小学校(現在の四日市市立浜田小学校)の卒業後に家業の木工業に従事したが、進取の気性に富むパイオニア精神がある玉井清太郎は1910年(明治43年)に実弟の玉井藤一郎に手伝わせてプレリオの単葉を模型とする実物大の玉井式単葉機を母校浜田小学校の校庭で組み立て作業をして、数回行った滑走実験のみで飛行機が浮上せずに失敗した。失敗後も何度も新しい機種の製作作業た、試運転にチャレンジするが失敗の繰り返しであった。[4]玉井清太郎は1912年(大正元年)から2年間の期間に大日本帝国軍人として入隊生活を送る。兄が徴兵されている期間に弟の玉井藤一郎は、鳥飼式隼号やカチス式複葉プッシャー早鷹号の組み立て作業に協力して、アメリカから帰国した飛行家の野島銀蔵の弟子となり飛行技術や飛行機製作技術を修得するが1914年(大正3年)に大日本帝国の軍隊に入隊した。軍隊から除隊した玉井清太郎は千葉県稲毛飛行場で飛行機製造事業に取り組み、1916年(大正5年)8月5日に、三重県四日市市の午起海岸で玉井式日本号(水上機)による『伊勢湾横断飛行』を計画する。伊勢湾横断計画を実施するが失敗した。[5] 子ども時代頃から飛行機に興味を持ち、1910年((明治43年)、四日市市立浜田小学校の校庭で試作飛行機を組み立てた。
  • 1916年(大正5年)8月5日、玉井清太郎が公開飛行の場所に選んだ土地は、四日市の午起海岸であった。玉井の国産水上飛行機「日本号」は、エンジンの不調などで飛行に失敗した。20000人の観衆が集まった大正6年度に相羽有と共同で日本飛行学校を東京羽田穴守に開校して、5月には玉井式3号で帝都を訪問する飛行計画を構想した。当日に離陸して上空に行き着陸寸前で墜落炎上した。
  • 四日市での飛行に失敗した清太郎は、東京市羽田の海岸に日本飛行学校を開校した。訓練生を募集して、資金を増加させて、1917年(大正6年)5月には3人乗りの飛行機を完成させた。5月20日の飛行公開飛行の日、東京日日新聞カメラマンを同乗させて羽田を飛び立った。東京上空を旋回する。3回飛行し芝浦に着陸の寸前、主翼の損傷により上空50mから墜落して、玉井清太郎、カメラマン共に亡くなった。玉井清太郎は享年24歳だった。
  • 飛行学校は一時閉鎖されたが、亡兄の遺志を継いだ玉井藤一郎は1917年(大正6年)7月に飛行学校を再建を図るが10月の台風被害で壊滅した。1918年(大正7年)2月に羽田飛行機研究所を設立して、野島銀蔵から飛行家として認定された。同時に玉井照高に改名して、10月には四日市港の築港埋め立て地で悲願の亡兄の玉井清太郎の追善飛行に挑んだ。玉井照高が操縦する青鳥号は三重郡河原田村→四日市港の沖合→三重村坂部→河原田村→四日市市街→四日市港の築港地区のコースを2巡して、約25分後に無事着陸した。1919年(大正8年)年、弟の藤一郎が四日市で飛行を成功させた。この時飛んだ飛行機は自身が設計した「粟津式青鳥号」と呼ばれて、1919年(大正8年)5月に完成したものだった。四日市市立博物館に8分の1のサイズの模型が展示されている。
  • 玉井清太郎が飛行学校の講師として活動したのは1年にも満たなかったが、この1年間の期間に羽田の飛行学校に入校したのが、当時16歳の円谷英二少年であった。

参考文献

  • 円谷英二―ウルトラマンをつくった映画監督 (小学館版学習まんが人物館)
  • 大樹育つ百年四日市市市制100周年記念
  • 四日市市制111周年記念出版四日市の礎111人のドラマとその横顔

脚注

  1. ^ 大樹育つ百年四日市市市制100周年記念117頁1行目~2行目
  2. ^ 大樹育つ百年四日市市市制記念117頁8行目~15行目
  3. ^ 大樹育つ百年四日市市市制100周年記念16行目~22行目
  4. ^ 四日市市制111周年記念出版四日市の礎111人のドラマとその横顔93頁1行目~5行目
  5. ^ 四日市市制111周年記念出版四日市の礎111人のドラマとその横顔93頁6行目~13行目

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