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戦後[[経済安定本部]]財政金融局長、管財局長などを経て、[[1952年]]山梨全県区から衆院選に立候補し初当選。当選9回。[[自由民主党の派閥|自民党内派閥]]は[[宏池会]]([[池田勇人]]→[[前尾繁三郎]]→[[大平正芳]]派)に所属。選挙区では[[金丸信]]([[周山会|佐藤派]]→[[木曜クラブ|田中派]])、[[中尾栄一]]([[政策科学研究所 (派閥)|中曽根派]])らと競合していた。
 
[[1970年]]1月、第3次[[佐藤栄作]]内閣の[[厚生大臣]]として初入閣。第2次[[田中角栄]]内閣の[[経済企画庁長官]]を経て、[[三木武夫]]政権時の[[1976年]]9月、党内抗争「[[三木おろし]]」の中、党内ナンバー2の[[自由民主党幹事長|幹事長]]に就任。幹事長としてその年の暮れの[[第34回衆議院議員総選挙]]の采配を振ったが、議席を減らしたため、三木らとともに辞任。
 
もともと、反主流派の一角である[[清和政策研究会|福派]]に属しながら反主流派と距離を置き三木に近い立場であった[[松野頼三]]の幹事長就任起用を三木望んだが、これに対して反主流派が猛反発していた。そこで党内抗争「[[三木おろし自由民主党政務調査会|政務調査会長]]への起用が予定されていた内田を幹事長おけ転じさせことで両派の妥協が成立て齎され。内田は党務のキャリアが乏しく、幹事長ポストへの指名は予想外の出来事ものであった。しかも幹事長となれば執行部の代表として自ら属する反主流派の大平派との対立を余儀なくされかねなかったため、就任に対して強く難色を示した。結局説得により引き受けることになったが内田は就任記者会見で「道を歩いていたら、[[マンホール]]に落ちたような気分だ」と思わず心境を吐露し、「'''マンホール幹事長'''」と揶揄された。
 
内田は幹事長としてその年の暮れの[[第34回衆議院議員総選挙]]の采配を振ったが、議席を減らしたため、三木らとともに辞任した。
 
[[1977年]][[12月29日]]、死去。衆議院での弔辞は同じ山梨全県区選出の[[鈴木強]]([[日本社会党]])<ref>[http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/084/0001/08402090001007c.html 衆議院会議録情報 第084回国会 本会議 第7号]</ref>。