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'''ファジー・ゼラー'''('''Fuzzy Zoeller''', [[1951年]][[11月11日]] - )は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[インディアナ州]]ニューアルバニー出身の男子[[プロゴルファー]]。本名は ''Frank Urban Zoeller Jr.'' (フランク・アーバン・ゼラー・ジュニア)といい、「ファジー」は彼の愛称である。[[1979年]]の[[マスターズゴルフトーナメント|マスターズ]]と[[1984年]]の[[全米オープン (ゴルフ)|全米オープン]]で優勝し、[[グランドスラム (ゴルフ)|メジャー大会]]に2勝を挙げた選手である。[[1981年]][[全米プロゴルフ選手権]]2位・[[1994年]][[全英オープン (ゴルフ)|全英オープン]]3位もある。[[PGAツアー]]ではメジャー2勝を含めて総計10勝を挙げ、50歳以上の選手を対象にした[[チャンピオンズツアー]]でも2勝している。
 
3歳から[[ゴルフ]]を始め、[[1973年]]にプロ入り。76[[1976]]には8ホール連続バーディのプロ新記録を達成。6プロ7の[[1979年]]シーズンの3戦目、1月末のサンディエゴ・オープンでゼラーはツアー初優勝し、その資格で初出場した[[マスターズゴルフトーナメント|マスターズ]]で初優勝を決めた(ツアー2勝目)。最終ラウンドの終了時点で、ゼラーと[[トム・ワトソン]]、[[エド・スニード]]の3人が8アンダー(-8, 280ストローク)で並んだため、マスターズ史上初めて「サドンデス・プレーオフ」を行い、ゼラーがプレーオフ2ホール目(11番ホール)のバーディで制した。それまでは、マスターズの[[プレーオフ]]は翌日にもう1日(18ホールの1ラウンド)延長で実施されていたが、この時からサドンデス・プレーオフ方式になり、現在に至っている。マスターズの大会創設期、第1回大会優勝者の[[ホートン・スミス]]と第2回優勝者[[ジーン・サラゼン]]の後は、初出場から優勝した選手はいなかった。
 
それから5年後の[[1984年]]、ファジー・ゼラーは[[全米オープン (ゴルフ)|全米オープン]]で[[グレグ・ノーマン]]([[オーストラリア]])とのプレーオフに勝ち、ここでもプレーオフで優勝をもぎ取った。この年の全米オープン開催コースは、[[ニューヨーク]]の「ウィングドフット・ゴルフクラブ」(パー70)で、2人の並んだスコアは 4 アンダーパー(-4, 276ストローク)であった。ところが、2か月後の[[全米プロゴルフ選手権]]の会場に着いた時、ゼラーは背中の激痛に苦しみ、開幕直前で出場断念を余儀なくされる。脊椎部[[椎間板ヘルニア]]の手術を受け、試合への復帰までに半年を要した。手術から復帰した[[1985年]]、ゼラーは[[全米ゴルフ協会]]から「[[ボビー・ジョーンズ (ゴルファー)|ボビー・ジョーンズ]]賞」を授与された。これはゴルフにおいて、優れた[[スポーツマンシップ]]を発揮した選手に贈られる賞である。[[PGAツアー]]では[[1986年]]に年間3勝を獲得したが、それ以後はレギュラー・ツアーでの優勝がなくなった。