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'''三浦の乱'''(サンポのらん)とは、[[1510年]]([[中宗 (朝鮮王)|中宗]]4年)に[[李氏朝鮮|朝鮮国]][[慶尚道]]で起きた、[[対馬国|対馬]][[守護]][[宗氏]]と[[恒居倭人]]([[朝鮮]]居留[[日本人]])による反乱。朝鮮名'''庚午三浦倭乱'''(경오 삼포 왜란)。
 
== 概要 ==
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== 乱の展開 ==
1510年
事の発端は釣りに向かう薺浦の恒居倭人4名を、海賊と誤認した朝鮮役人が斬殺した事にある。日ごろから折り合いの悪かった三浦の恒居倭人は、この事態に憤慨し一斉に武器を持って立ち上がった。[[田代和生・著・倭館]]
さらに、4月4日、対馬から[[宗盛順]]率いる援軍を加えた恒居倭は、約4500の兵力をもって三浦の乱を起こす。これは宗氏主導で計画的に起こされたものと考えられている{{ref label|使船|脚注9|^}}。彼らの目的は、強硬な取締りを行った辺将を討取り、朝鮮王朝の行なった交易の制限、恒居倭に対する検断権・徴税権の行使といった倭人抑圧政策の変更を迫る事にあった。