「前田三夫」の版間の差分

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[[ノック (野球)|ノック]]の技術はプロ並で、ホームベースから外野ポールに直撃するフライをいとも簡単に打つことができる。
 
[[1995年]]には[[第67回選抜高等学校野球大会|センバツ]]に出場するものの初戦の和歌山[[伊都高校]]戦にて0-1で敗れ、大会後には練習試合で大敗したことがきっかけで厳しさを増した練習(連日夜の12時まで練習するなどした)についていけず同年春の甲子園出場時の主将を含むレギュラー部員が3人退部。それでも自分を曲げなかった結果、同年夏の選手権大会では春夏通算3度目の全国制覇を達成した。しかし、この大会前の予選では、控え投手を登板させたいために、コールド勝ちできる状態にもかかわらず、三塁走者をあえて生還させなかったなど、この時期は勝利のためには妥協を許さない采配・指導ぶりが目立ち一部で批判もあった。
 
このような批判を受けてか、その後は自主性野球を取り入れるなど指導のあり方を変え、[[第80回全国高等学校野球選手権大会|1998年夏]]に[[森本稀哲]]を擁して甲子園に出場するも[[和田毅]]擁する[[島根県立浜田高等学校|浜田高校]]に敗れる。その時の選手たちの淡泊さに違和感を感じ、再度指導のあり方に悩むことになる。しかし、その後も試行錯誤を繰り返しながら好選手のいる好チームを作り甲子園で結果を出し、前田の采配も円熟味を増すようになってきた。それと同時に帝京高校の野球を理解するファンが多くなり、帝京の野球を好むファンも増えてきた。また、インタビューでは謙虚なコメントが多い。
 
[[第88回全国高等学校野球選手権大会|2006年夏]]に準々決勝で[[智辯学園和歌山小学校・中学校・高等学校|智弁和歌山高]]と対戦し、9回表に(9回裏までもつれこんだ場合)予選でも投手経験がある選手がいなくなることを承知の上で投手の[[大田阿斗里]]に代打を出すなどして4-8から8点を奪い逆転する執念を見せるも、その裏、急造投手が持ちこたえられず最後は押出しの四球により12-13でサヨナラ負けを喫するという壮絶な試合を展開した(詳細は[[第88回全国高等学校野球選手権大会智辯和歌山対帝京]])。
 
翌[[第79回選抜高等学校野球大会|2007年春]]は大型右腕の大田を擁しベスト4。[[第89回全国高等学校野球選手権大会|同年夏]]は大田がケガもあって地方大会から不調だったが、垣ケ原らの活躍もあり3季連続甲子園出場。ベスト8まで進んだ。