「グプタ朝」の版間の差分

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第4代{{仮リンク|クマーラグプタ1世|en|Kumaragupta I}}(位415年頃 - 455年)の治世は、[[玄奘]]や[[義浄]]も学ぶことになる[[ナーランダ大学|ナーランダ僧院]]が設立されたことで知られるが、その治世の末期には遊牧民[[エフタル]]の侵入によって北西部の支配が動揺をはじめる。その子、{{仮リンク|スカンダグプタ|en|Skandagupta}}(位455年 - 467年)は、皇太子プルグプタに打ち勝って王位を獲得、インド北西部領域の支配につとめ、かっての栄光を一時的に回復した。
 
しかし、その後は小地域の支配者層が力を強め、グプタ朝の宗主権はいまだ広い範囲で認められていたものの、支配は徐々に名目的なものとなっていった。さらに6世紀初頭にはエフタルが再進攻を行い、最終的に撃退には成功したものの国力は決定的に衰えて従属王朝が相次いで独立し、[[北インド]]は分裂状態となった。[[6世紀]]のグプタ朝の版図は北[[ベンガル地方|ベンガル]]と[[ビハール州|ビハール]]に限られるようになり、[[550年]]頃の[[{{仮リンク|ヴィシュヌグプタ]] (グプタ朝)|label=ヴィシュヌグプタ|en|Vishnugupta (Gupta Empire)}}の治世に滅亡したと考えられている。
 
==政治==