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'''梨本宮'''(なしもとのみや)は、[[伏見宮貞敬親王]]の第 9王子[[梨本宮守脩親王|守脩親王]]が創設した[[宮家]]。多くの宮家が創立された伏見宮系の新設宮家のうち、唯一[[伏見宮邦家親王|邦家親王]]の兄弟によって創設されている宮家である
 
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=== 梨本宮守脩親王 ===
{{main|梨本宮守脩親王}}
初代'''守脩親王'''は[[文政]]2年([[1819年]])に誕生する。[[天保]]4年([[1833年]])に[[親王宣下]]して、[[円満院]]に入って[[出家]]し'''覚諄[[入道親王]]'''と称した。天保6年([[1835年]])には[[三千院|梶井円融院]]を相続して'''昌仁入道親王'''と改名した。明治元年([[1868年]])に還俗して'''梶井宮'''と称し、次いで明治3年([[1871年]])には'''梨本宮'''と改称した。貞敬親王にはその長男・邦家親王と同じく多くの子女がいたが、還俗して宮家の当主となったのは嫡子・邦家親王の他にはこの守脩親王のみである。[[1881年]](明治14年)、63歳で薨去。
 
=== 梨本宮菊麿王 ===
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3代'''守正王'''は、[[1874年]](明治8年)の誕生。[[1900年]](明治33年)に[[侯爵]][[鍋島直大]]の二女[[梨本伊都子|伊都子]]と結婚し、'''[[李方子|方子女王]]'''、'''[[広橋規子|規子女王]]'''をもうけた。[[元帥 (日本)|元帥]][[陸軍大将]]、日仏協会総裁、在郷軍人会総裁などを歴任した。[[1943年]](昭和18年)、[[伊勢神宮]][[祭主]]に就任する。[[戦後]]、[[皇族]]唯一の[[戦争犯罪]]人に指定されて[[巣鴨拘置所|巣鴨プリズン]]に拘置されるが、半年後に釈放されて帰邸したところ、集団窃盗によって家財の多くが盗難にあっていたという。[[1945年]](昭和20年)、[[皇典講究所]]第6代総裁就任。[[1947年]]([[昭和]]22年)GHQの指令により10月14日[[臣籍降下|皇籍離脱]]し、[[1951年]](昭和26年)、78歳で逝去。
 
=== 守正王妃伊都子 ===
'''[[梨本伊都子|伊都子妃]]'''は、[[守正王]]亡き後も「最後の貴婦人」として振舞い、規子女王の二男'''[[広橋儀光]]'''、次いで[[久邇宮]][[多嘉王]]の三男'''[[龍田徳彦]]'''を養子に迎え、徳彦が梨本家を継承した後[[1976年]](昭和51年)に逝去した。[[日記]]をつけるのを日課にしており、死後「梨本宮妃伊都子の日記」として出版されている。明治時代中期以降、皇族は養子を取ることが禁止されており(無論、臣籍降下した者が養子を取ることは自由である)、規定に従えば伊都子の逝去で旧皇族としての梨本家は断絶したと言える。
 
=== その後の梨本家 ===
徳彦自身は元皇族ではあるが、戦前に臣籍降下して龍田伯爵となっており、厳密には伊都子の逝去で旧皇族としての梨本家は断絶したと言える。
最初に伊都子の養子となった儀光は血縁上は守正・伊都子夫妻の孫(外孫)である。皇族であった時期は一度も無い。その後養子となった徳彦は守正の甥に当たり、元皇族ではあるが、戦前に臣籍降下して龍田伯爵となっており(当時、傍系皇族の次男以下は臣籍降下をして侯爵または伯爵となる規定があり、加えて徳彦の父・多嘉王は西久邇宮創設の話こそあったものの宮家当主とならないまま没している)、戦後に梨本宮家が降下する以前から華族となっていた。ただし、[[東伏見宮]]家では徳彦の従兄弟で守正の甥(守正・多嘉の次兄・[[久邇宮邦彦王]]の三男)[[東伏見慈洽|東伏見邦英]]が華族・東伏見伯爵として宮家の祭祀を継承したように、徳彦もまた華族・平民として梨本家の祭祀を継承している。
[[2007年]]、当主であった徳彦が逝去。生前に養子とした皇族と血縁関係の無い[[梨本隆夫|隆夫]]が跡を継いでいる。
 
[[2007年]]、当主であった徳彦が逝去。生前に養子とした皇族と血縁関係の無い[[梨本隆夫|隆夫]]が跡を継いでいる。前述の通り「梨本宮」から続く旧皇族としての梨本家は1976年をもって断絶しており、現時点での梨本家を狭義・広義の旧皇族として含めることは基本的に無い
 
==== 方子女王 ====