「沖田芳次郎」の版間の差分

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戊辰戦争では、7月末からの矢島の攻略戦、9月中旬の関川の戦いに出陣したが、芳次郎の具体的な戦功や負傷などは伝えられていない。9月に庄内藩の降伏を知った三番隊は、鍋倉から湯田川温泉の宿に引き揚げている。
 
戦後、新徴組は大宝寺村に住居して後田山の開墾に従事することとなったが、明治5年([[1872年]])7月に数十名による集団脱走が決行され、林太郎一家もこれに加わっていたが、芳次郎は同行を否定。8月調査の『新徴組開墾士氏名』に名前がある。芳次郎が[[庄内]]から[[東京]]に帰還したのは明治14年(1881年)以前だったと思われる。
 
明治19年([[1886年]])、東京で[[警察官]]となった芳次郎は、明治19年に新選組隊士で縁戚関係にあった[[井上泰助]]の妹・ハナと結婚、明治21年([[1888年]])には、母・みつと弟の卓吉を連れて[[宮城県]][[塩竈市]]に赴き、[[魚介類]]の売買や製塩業を手掛けた。この間の明治19年に長男・重治が生まれる。明治27年([[1894年]])に次男・要が生まれる。