「ミハイル1世 (キエフ大公)」の版間の差分

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[[1162年]]ごろ、兄[[アンドレイ・ボゴリュブスキー|アンドレイ・ユーリヴィチ・ボゴリュブスキー]](当時ウラジーミル公。)([[:ru:Андрей Юрьевич Боголюбский|ロシア語版]])によって[[スーズダリ]]から追放された。なお、ロシアの歴史学者ヴァシリー・ニキティチ・タティーシェフ([[1686年]] - [[1750年]])([[:ru:Татищев, Василий Никитич|ロシア語版]])は、ミハイルの行き先は[[ゴロジェッツ]](現在のオスチョール)であったと推測している。
 
[[1168年]]、[[キプチャク|ポロヴェツ族]]に対する[[ムスチスラフ2世]]の遠征に参加した。また同年には[[黒帽子族]]の部隊と共に[[ノヴゴロド公国|ノヴゴロド]]へ派遣されたが、[[モノマフ一門]]によって[[捕虜]]になった。ミハイルが解放されたのは次の年であり、この時に兄アンドレイから、[[ローシ川]]と[[ステューナ川([[:ru:Стугна (река)|ロシア語版]]の間に建設されていた、トールチェスク([[:ru:Торческ|ロシア語版]])という入植地を受領した。
 
[[1170年]]、ポロヴェツ族から[[ペレヤスラヴリ]]を防衛した。1172年、兄アンドレイにより、キエフ大公に任命された。この時ミハイルは、弟の[[フセヴォロド3世]]をモノマフ一門により包囲されていたトールチェスクに派遣し同地に留任させた。[[1173年]]には、アンドレイと共に数ヶ月にわたって、キエフ大公の座をめぐる闘争に参加した。