「ヴィルヘルム・フォン・テゲトフ」の版間の差分

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同年、新しい海軍研究のため[[イギリス]]、[[フランス]]、[[アメリカ合衆国]]に赴く。1868年には軍事省海軍部長に就任。[[参謀本部]]の抵抗もものともせず、短期間のうちに海軍の組織改革を成し遂げた。アメリカ滞在中の1867年にかつての上司のメキシコ皇帝マクシミリアンが共和国軍によって処刑されると、ノヴァラ号を派遣して遺体を引き取りオーストリアに戻す任務に就いている。これに関して、
 
「私が、一足飛びに上り詰めた高位高官の地位、あるいは胸を飾る数々の勲章。これらは私が私の生涯をかけた仕事の報酬として、そうです、私の心を広げ、私の魂を躍らせる報酬として見做しておりません。私にとって真の報酬とは、皇帝陛下がかつて、その気高い思いやりで私に下命されたあの任務のことです。陛下の雄々しい弟君の屍を祖国に護送するという任務のことです」<ref>菊池P81,L8-11</ref>
「私にとって真の報酬とは、急速な昇進でも数々の勲章でもなく、陛下が亡き弟君のご遺体をメキシコから祖国へ待ちかえるよう命令を与えてくださったことです」
 
と述べている。その遺産は1918年のオーストリア帝国消滅まで維持されることになる。しかし1871年に[[肺炎]]のため43歳の若さで[[トリエステ]]で急死した。墓は[[グラーツ]]にある。