'''ユーゴスラビア人'''({{lang|sr|Југословени}})は、[[ユーゴスラビア]]において想定された[[エスニックグループ民族]]の概念。
==概要==
[[1961年]]共産主義体制下のユーゴスラビアで行われた初めての[[国勢調査]]から導入された。ユーゴスラビアの国勢調査によるエスニックグループ民族の調査は自己申告であり、本来のエスニック民族と異なるものを申請してもさほど問題にならなかった土壌がユーゴスラビアには存在した。ユーゴスラビア崩壊後も「ユーゴスラビア人」であると申告する人がいる。
実際に[[文化人類学]]的見地から見た場合、「ユーゴスラビア人」というエスニックグループ民族は存在しない。同様に多民族国家において想像されたエスニックグループ民族として「[[チェコスロバキア人]]」、「[[ソ連人]]」、「[[中華民族]]」がある。一方で70年以上存在したユーゴスラビアにおいてさまざまなエスニックグループ民族間の[[混血]]が進んだ結果、両親のエスニック民族が異なるなどして自らのエスニック民族を「ユーゴスラビア人」としか規定しようがない人々がかなりの数存在したのも確かである。
地域的には、エスニックグループ民族間の混血が進んだ地域に「ユーゴスラビア人」が多かった。具体的には[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]、セルビアの[[ヴォイヴォディナ|ヴォイヴォディナ自治州]]等が該当する。また、地方からの流入者が多かった[[ベオグラード]]をはじめとする都市部もこれに該当した。また、あるエスニックグループ民族がマジョリティである地域において、マイノリティのエスニック民族である者が摩擦を避けるために「ユーゴスラビア人」とした場合も存在する。
自らのエスニックグループ民族を「ユーゴスラビア人」として申告した人の数は、[[1971年]]の国勢調査では273,077人(全人口の1.3%)、[[1981年]]の国勢調査では1,216,463人(全人口の5.4%)に昇った。「ユーゴスラビア人」が最も多かったのはこの時で、以降ユーゴスラビア解体の動きが進んでいく中で、自らのエスニック民族を「ユーゴスラビア人」として申請する人の数は少なくなっていった。それでも[[1991年]]に行われたユーゴスラビア最後の国勢調査ではボスニア・ヘルツェゴビナで239,777人が、自らのエスニック民族を「ユーゴスラビア人」として申告している。
ユーゴスラビア解体後、旧ユーゴスラビア構成諸国家では[[2001年]]から[[2003年]]にかけて国勢調査を実施しているが、2002年に実施された[[セルビア]]の国勢調査では80,721人が自らのエスニック民族を「ユーゴスラビア人」として申告している。
現在でも自らのエスニック民族を「ユーゴスラビア人」として申告する者の思想的背景としては、当然これを導入した共産主義体制を支持する者も存在するが、単にユーゴスラビアを懐古する者、旧ユーゴスラビアにおける[[ユーゴスラビア紛争]]の反省から、エスニック民族間の融和に努めるべきであるという思想により「ユーゴスラビア人」を名乗るものまで幅広く存在する。また、思想とは別に単に自らの両親のエスニック民族が異なるからという理由で「ユーゴスラビア人」として申告する者も存在する。
== 関連項目 ==
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