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{{commonscat|Sheikh Hamad bin Khalifa Al-Thani}}
'''ハマド・ビン・ハリーファ・アール=サーニー'''({{Rtl翻字併記|ar|'''حمد بن خليفة آل ثاني'''|'''Hamad bin Khalifa Al Thani'''}}、[[1952年]][[1月1日]] - )は、[[カタール]]前[[カタールの元首一覧|首長]]([[1995年]][[6月27日]]
== 経歴 ==
[[1952年]]、当時[[イギリス]]の[[保護領]]であったカタールに生まれる。初等教育(初等学校、中等学校)はカタールのドーハで受け<ref name=diwan>Amiri Diwan[http://www.diwan.gov.qa/english/the_amir/the_amir_cv.htm H.H. the Amir-Biography]</ref>、後にイギリスの[[サンドハースト王立陸軍士官学校]]で学ぶ<ref name=miyata>宮田律 [http://www.jccme.or.jp/japanese/11/pdf/11-01/11-01-36.pdf 『シェイフ・ハマドの夢』]、2008年、中東協力センターニュース</ref>。
[[1971年]]7月に卒業し、帰国後はカタール陸軍の中佐となり、[[1972年]]に少将、機動師団の師団長となる。[[1975年]]にはアール
[[1977年]][[5月]]に[[皇太子]]となり、同時に国防大臣に任ぜられた。[[1980年代]]初頭には最高諮問評議会 (the Supreme Planning Council) 議長となり、基礎経済と社会政策を担当する。
[[1979年]]から[[1991年]]9月まで、カタール健康会議 (Higher Council for Youth Welfare, HCYW) の議長を務め、スポーツの振興などに
カタール陸軍の[[元帥]]として軍の近代化にも務めており、兵士教育、軍制改革、兵器革新などを実施した。この近代化が功を奏し、[[1990年]]の[[湾岸戦争]]では[[クウェート]]側につき、[[サウジアラビア]]の町[[カフジ]]の奪還に貢献している。
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政策にもこれらが影響しており、国内工業化に特化した政策を取っていた父と比べて、天然ガス開発、行政合理化、民営化、カタール人優先雇用政策などに力を入れている<ref name=qaemb/>。
カタール国内の運動競技発展に
* [[2001年]]
* [[2002年]]
* [[2006年]]
などの国際大会も開催されるようになっている。
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