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'''蕭 奉先'''(しょう ほうせん、? - [[1123年]])は、[[遼]]の[[外戚]]。[[契丹]]の名家出身。[[契丹]]名(小字)は'''得里底'''(デリティ)。
 
宰相・[[蕭継先]]の5世の孫にあたり、蕭、蕭昱(蕭昱于?)らの父。蕭嗣先の兄。妹の[[蕭皇后 (遼天祚帝)|蕭皇后]]が[[天祚帝]]の后となり、もうひとりの妹の[[蕭元妃]]も妃となり、梁王・[[耶律雅里]](次男)、秦王・耶律定(五男)、許王・耶律寧(末子)を生んだことで、帝に篤く信任された。そのために北院枢密使に任命され、蘭陵郡王に[[冊封]]された。また次男の蕭昱が天祚帝の[[フ馬|駙馬]]([[娘婿]])であった。
 
== 経歴 ==
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そこで、蕭奉先は一案を浮かび、天祚帝に上訴した。彼は「余賭は、晋王・傲盧斡を擁立する陰謀の模様である」と讒言してしまった。天祚帝はまったく蕭奉先の言葉を疑わず、直ちに晋王、耶律余賭一味の鎮圧に動いた。
 
そのため、外征中の耶律余賭は身の危険を感じてしまい、やむなく金に降ってしまった。間もなく晋王の生母の[[蕭文妃]]は[[賜死]]を受け、翌[[1122年]]正月に晋王も[[処絞首]]に処され、その一族も連坐で皆殺しの刑に処されてしまった。蕭奉先の希望通りに秦王が太子となった。
 
しかし、同年3月7日に天祚帝は親征したが、入來山で金に敗れ、[[燕京]]には戻らず[[長春]]に逃れた。間もなく西の[[山西]][[雲州|雲中]]の陰山に潜伏した。同17日、留守を預かった[[皇族]]の[[耶律大石]]は[[李処温]](かつて蕭奉先の推薦を受けた)とともに、天祚帝の従父[[耶律淳]]([[天錫帝]])を擁立し、天祚帝を「湘陰王」に降格して、「[[北遼]]」を建国してしまった。
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6月に天錫帝が亡くなり、蕭奉先の甥で太子の秦王耶律定が擁立され、天錫帝未亡人が[[摂政]]として補佐した。翌[[1123年]]正月に秦王は金の猛攻に耐えきれず、陰山にいる父帝のもとを頼った。2月、天錫帝未亡人は「湘陰王降格」の廉で誅殺され、秦王はもとの太子に戻された。
 
同年5月に今度は、もうひとりの甥の梁王耶律雅里が「北遼」の皇帝として擁立され、再び自立してしまった。間もなく、蕭奉先は陰山にて天祚帝の寵愛を失い、子の蕭、蕭昱と弟の蕭嗣先とともに誅殺された。
 
『[[遼史]]』での蕭奉先評は「狭私滅公」(滅私奉公の反義語)と記されている。