「尾上菊五郎 (初代)」の版間の差分

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『[[仮名手本忠臣蔵]]』の大星由良助
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'''初代 尾上菊五郎'''(しょだい おのえ きくごろう、[[享保]]2年〈[[1717年]]〉 - [[天明]]3年[[12月29日 (旧暦)|12月29日]]〈[[1784年]][[1月21日]]〉)とは、江戸時代の[[歌舞伎]]役者]]。[[屋号]][[音羽屋]]、[[俳名]][[尾上梅幸|梅幸]]。幼名は竹太郎。
 
[[京都]]都萬太夫座の[[芝居茶屋]]の[[出方]]音羽屋半平の子。初め[[女形|若女形]]の[[尾上左門]]の門下となり、尾上竹太郎と名乗る。[[享保]]15年(1730年)京都榊山四郎太郎座で[[尾上菊五郎]]を名乗って若衆方として初舞台。同20年(1735年)からは若女形として舞台に立ち評判を取る
 
<!--『鳴神』で[[江戸]]から上ってきた[[市川團十郎 (2代目)|二代目市川海老蔵]]の鳴神上人の相方・雲之絶間姫をとつめて大当たりになる。-->その後[[寛保]]元年(1741年)、大坂で[[市川團十郎 (2代目)|二代目市川海老蔵]]と同座し、翌年寛保二年には、『[[鳴神]]』で海老蔵演じる鳴神上人を相手に雲の絶間姫を演じて大評判を取った。これをきっかけに、翌年海老蔵と共に江戸に下り、[[市村座]]に出て女形として売り出したが、。その後[[宝暦]]2年(1752年)に立役に転じ。しかし[[明和]]3年(1766年)、江戸堺町で営んでいた油屋からの出火により隣接する[[中村座]]と[[市村座]]の両座を焼失、これ「菊五郎油見世火事」とわれるほど反発を買ってい、帰坂せざるを得なくなった。その後は四年を経てふたたび江戸に下り大当りを取り、三都の舞台で活躍し、最後は大坂で没した。
 
当り役は『[[仮名手本忠臣蔵]]』の大星由良助、『ひらかな盛衰記』の延寿・畠山重忠など。子に[[尾上菊五郎 (2代目)|二代目尾上菊五郎]]がいる。<!--後妻の連子(父は[[大谷広次 (2代目)|二代目大谷廣次]])の初代[[尾上丑之助]]が天明5年 (1785) に[[尾上菊五郎 (2代目)|二代目菊五郎]]を襲名したが、2年後に[[数え歳|数え]]十九で早世した。-->
 
== 参考文献 ==
*『尾上菊五郎一代狂言記』〈『新群書類従』第三 演劇其三〉 国書刊行会、1976年(復刻版) ※『梅幸集』付録
*野島寿三郎編 『歌舞伎人名事典』(新訂増補) 日外アソシエーツ、2002年