「梅ヶ谷藤太郎 (初代)」の版間の差分

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同年2月には[[吉田司家]]と[[五条家]]の両方から横綱免許を授与されたが、梅ヶ谷は吉田司家の免許を希望し、これが司家争いの結果を決めたと伝わる。3月に行われた明治天皇の天覧相撲では、[[伊藤博文]]が用意したまわし(自前のまわしが間に合わなかったという)で土俵入りを披露した。土俵入り後、明治天皇のリクエストで[[大達羽左エ門]]との割が組まれたが大熱戦の末に引き分けとなって天皇は大喜び、明治維新で低迷していた相撲人気も回復した。[[1885年]]5月場所を最後に引退し、年寄・[[雷 (相撲)|雷]]を襲名した。
 
引退後は東京大角力協会の最高職だった取締を長く務め、[[1915年]]6月場所で弟子の[[梅ヶ谷藤太郎 (2代)|二代目梅ヶ谷藤太郎]]が引退すると部屋と[[年寄名跡]]を譲って廃業したが、協会は「'''大雷'''」の尊称を贈り、[[相談役]]待遇として接していた。
 
弟子である梅ヶ谷藤太郎が没してから9ヶ月後、1928年6月15日に死去。{{没年齢|1845|3|16|1928|6|15}}。[[還暦]]が長生きの基準だった時代の力士としては非常な長命で、横綱の長寿記録として現在でもまだ破られていない。