「奥田敏輝」の版間の差分

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'''奥田 敏輝'''(おくだ としてる、[[1949年]][[1月2日]] - [[2006年]][[9月14日]])は、[[大阪府]][[豊中市]]<ref name=jinmei>プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、125ページ</ref>出身の[[プロ野球選手]]。
 
== 来歴・人物 ==
[[大阪府立桜塚高等学校]]時代は2年秋からエースで主将となり3年夏の大阪大会6試合完封・58.1イニング連続無失点を記録し、大阪大会決勝まで進んだ(決勝は0-4で[[関西大学北陽高等学校|北陽高校]]に敗れる)。[[1966年]]の一次[[プロ野球ドラフト会議|ドラフト]]5位で[[阪神タイガース]]に入団。スリークォーターから決めダマのシンカーとカーブを使うピッチングが持味。[[1969年]]には2軍で15勝を挙げ、最多勝を獲得するが、一軍では結果を残せず、[[1972年]]に退団。[[サラリーマン]]生活を経て、[[水道]]関連の会社を興す。
 
大阪府立桜塚高等学校時代の[[1966年]]夏に[[全国高等学校野球選手権大会]]大阪府予選の準決勝を投げ合った[[大阪学院大学高等学校]]の[[江夏豊]]とは友人関係で、[[1996年]]には、その準決勝の30周年記念として桜塚高校対大阪学院高校の再対決を実現させた。