「エクアドルの歴史」の版間の差分

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== 保守主義の時代 ==
[[ファイル:gabrielgarciamoreno.jpg|thumb|220px|right|超[[保守]]政治家、[[ガブリエル・ガルシア・モレノ]]。[[カトリック教会]]の威信を重視する当時の[[保守]]派の観点から、1873年にエクアドルを「[[イエス・キリスト|イエス]]の聖心」に捧げた<ref name=arakihencho.46>[[#新木編著(2006)|新木編著(2006:46)]]</ref>。]]
 
独立後、フローレス政権はシエラのキトの寡頭支配層を支持基盤に専制政治を敷いたが、ペルー、ヌエバ・グラナダとの紛争や、国内での内戦が相次いだ。独立時のエクアドルは、現在のエクアドルの約4倍程の面積だったが、対外戦争により広大な領土が徐々に近隣諸国に併合されることになった。1832年には[[ヌエバ・グラナダ共和国]]との戦争に敗北し、[[カルチ川]]北部を割譲している。独立後もフローレスの独裁は続いたが、1845年3月に[[三月革命 (エクアドル)|三月革命]]が勃発し、グアヤキル出身の[[ビセンテ・ラモン・ロカ]]が政権に就いた<ref name=arakihencho.45>[[#新木編著(2006)|新木編著(2006:45)]]</ref>。しかし、反フローレス派の寄せ集めという感が拭えなかったこの革命はすぐに路線に迷い、以降フローレス派と反フローレス派の抗争が続いた<ref name=arakihencho.45/>。
1859年のペルーとの戦争が勃発し、[[ラモン・カスティージャ]]将軍の指揮する[[ペルー陸軍]]がエクアドル南部を進撃し、[[ペルー海軍]]によりグアヤキル港が封鎖された。[[ギジェルモ・フランコ]]大統領はペルーにアマゾン地域の割譲を申し出るが、これに[[ガブリエル・ガルシア・モレノ]]が反発し、1860年にフランコは失脚した。
 
同年、シエラ出身の[[保守主義|保守主義者]]の[[ガブリエル・ガルシア・モレノ]]がカトリック教会の支援の下、反ペルーを旗印にエクアドルを統一した。モレノが1861年に大統領に就任すると、エクアドル自由党は[[グラナダ連合]]に逃亡し、モスケーラ大統領の支援を受けてモレノに反撃すると、モレノは1862年に自由党を支援するグラナダ連合に宣戦布告し、ヌエバ・グラナダに侵攻したが、大敗を喫した。1862年にモレノ政権は[[バチカン]]と[[コンコルダー]](政教協約)を結んでカトリックをエクアドルの国教に定め、モレノが制定した1869年憲法ではカトリック教会の[[公教育]]に対する特権が認められた<ref name=arakihencho.46/>。また、1864年に[[コロンビア合衆国]]の支援を受けて侵攻してきた元大統領のウルビーノを破った。モレノの親カトリック的な傾向はさらに進み、1873年の議会でエクアドル共和国は「[[イエス・キリスト|イエス]]の聖心」に捧げられることになった<ref name=arakihencho.46/>。このように政治と教会の距離はモレノによって縮められたが、他方でモレノ時代には軍隊や[[鉄道]]、[[大学]]が整備され、多くの科学者や技術者がヨーロッパから招聘された<ref>[[#新木編著(2006)|新木編著(2006:46-47)]]</ref>。また、モレノは自由主義者が主張していたインディオの共有地を解体して私有地化し、インディオから土地を奪うことを拒否している<ref>[[#中川、松下、遅野井(1985)|中川、松下、遅野井(1985:45)]]</ref>。一方で、この時期にコスタでの[[プランテーション]]作物が主要産業になると、徐々にコスタの[[資本家]]が力をつけ、1867年にはグアヤキルに[[エクアドル銀行]]が設立されている。こうしてモレノを代表とするキト=シエラ(山岳部)の大土地所有者([[保守主義]])と、グアヤキル=コスタ(海岸部)の財閥([[自由主義]])の対立が進行した。1875年にモレノは再選したが、間もなく暗殺された。
 
== 自由主義革命の時代 ==
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