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| Current_members = [[ジョーイ・ラモーン]]([[ボーカル]])<br />[[ジョニー・ラモーン]]([[ギター]])<br />[[C・J・ラモーン]]([[ベース (弦楽器)|ベース]])<br />[[マーキー・ラモーン]]([[ドラムセット|ドラム]])
| Past_members = [[トミー・ラモーン]](ドラム)<br />[[エルビス・ラモーン]](ドラム)<br />[[リッチー・ラモーン]](ドラム)<br />[[ディー・ディー・ラモーン]](ベース)
 
}}
[[File:Johnny and Joey Ramone.jpg|thumb|300px|right|ジョニー (左), ジョーイ (中央), ディー・ディー (右) 1977年のライヴ]]
'''ラモーンズ''' ('''Ramones''')は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の4人組[[パンク・ロック|パンク]]バンド。[[1974年]]結成、21枚のアルバムを残し[[1996年]]解散。
'''ラモーンズ''' ('''Ramones''') は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の4人組[[パンク・ロック|パンク]]バンド。[[1974年]]結成、21枚のアルバムを残し[[1996年]]解散。「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第26位。
 
== 概要 ==
1977年の[[パンク・ロック|ロンドン・パンク]]・ムーブメントに大きな影響を与え、アメリカ合衆国より[[イギリス]]で評価が高いバンドである。
 
デビュー作から3作目までのアルバムは、ロック史上に残る重要なアルバムと評価されている。1979年に発表した7作目のアルバム『エンド・オブ・ザ・センチュリー』([[フィル・スペクター]]がプロデュースを担当した)はバンド史上最大のヒットアルバムとなり、[[2012年]]現在も[[メジャーリーグベースボール|大リーグ]]の試合でこのアルバムの曲が演奏されるなど、[[アメリカ合衆国#国民|アメリカ人]]に深く浸透している。
 
メンバー全員'''ラモーン''' ('''Ramone''') の姓を名乗っている。これは、[[ポール・マッカートニー]]([[ビートルズ]])がアマチュア時代、ソロ・シンガーの[[スコットランド]]・ツアーにバックバンドとして同行した時に「ポール・ラモーン」を名乗ったことにちなんでいる。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第26位。
 
そのスタイルはデビューから解散まで変わらず、シンプルでキャッチーなメロディー、コードは3~4、ダウンストローク一辺倒のギター[[リフ]]、リズムは8ビート中心、シンプルでスピーディーな短い曲ばかりである。革ジャン、[[ジーンズ]]、[[モズライト]](ジョニーの使用ギター)というトレードマークも最後まで変わらなかった。
 
== 影響 ==
[[2001年]]のMTVミュージック・アウォーズの壇上で、[[U2]]の[[ボノ]]がマーキー・ラモーンに「もしラモーンズが存在しなかったらU2も存在しなかっただろう」と発言して敬意を表した。その後ボノとマーキーは何度もステージで共演している。マーキー・ラモーンはほかに[[エルビス・プレスリー]]の娘[[リサ・マリー・プレスリー]]とも親しい。ラモーンズのリスペクトパーティには[[ショーン・レノン]]も出席した。
 
2001年[[4月15日]]にジョーイが他界。世界のメディアは見出しに「パンク・ロックのゴッドファーザー逝く」「パンク・ロックは教祖を失った」と書き、ジョーイ(ラモーンズ)の業績を讃えた。
 
== メンバー ==
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|1989-1996||C.J.Ramone
|}
 
== スタイル ==
メンバー全員'''ラモーン'''('''Ramone''')の姓を名乗っている。これは、[[ポール・マッカートニー]]([[ビートルズ]])がアマチュア時代、ソロ・シンガーの[[スコットランド]]・ツアーにバックバンドとして同行した時に「ポール・ラモーン」を名乗ったことにちなんでいる。
 
そのスタイルはデビューから解散まで変わらず、シンプルでキャッチーなメロディー、コードは3~4、ダウンストローク一辺倒のギター[[リフ]]、リズムは8ビート中心、シンプルでスピーディーな短い曲ばかりである。革ジャン、[[ジーンズ]]、[[モズライト]](ジョニーの使用ギター)というトレードマークも最後まで変わらなかった。
 
== 来歴 ==
* [[1974年]] - [[ニューヨーク]]の[[クイーンズ区]]に住んでいたジョーイ(ボーカル)、ジョニー(ギター)、ディー・ディー(ベース)、トミー(ドラム)の4人により結成された。
[[File:Johnny and Joey Ramone.jpg|thumb|300px|right|ジョニー (左), ジョーイ (中央), ディー・ディー (右) 1977年のライヴ]]
* [[1976年]] - 『ラモーンズの激情』("The Ramones")でアルバムデビュー。
; [[1974年]]
* [[1978年]] - トミーが脱退しマーキーが加入<ref>トミーはその後も裏方としてバンドに関わる。</ref>。
[[ニューヨーク]]の[[クイーンズ区]]に住んでいたジョーイ(ボーカル)、ジョニー(ギター)、ディー・ディー(ベース)、トミー(ドラム)の4人により結成された。
* [[1983年]] - マーキーが脱退しリッチーが加入。
 
* [[1987年]] - リッチーが脱退、マーキーが再加入。
; [[1976年]]
* [[1988年]] - ディー・ディーが脱退。
『ラモーンズの激情』("The Ramones")でアルバムデビュー。
* [[1989年]] - C・Jが加入。
 
* [[2001年]][[4月15日]] - ジョーイが[[リンパ腺]][[悪性腫瘍|ガン]]により49年の生涯を閉じる。ジョーイは[[南アフリカ]]の黒人隔離政策に反対する運動「サンシティ」に参加していた。
; [[1978年]]
* [[2002年]][[3月18日]] - [[ロックの殿堂]]入りを果たした。
トミーが脱退しマーキーが加入<ref>トミーはその後も裏方としてバンドに関わる。</ref>。
* 2002年[[6月5日]] - ディー・ディーが[[ヘロイン]]の[[オーバードース]]により49年の生涯を閉じる。
; [[1983年]]
* [[2003年]] - ラモーンズの初めてのドキュメンタリー映画『'''End of the Century'''』が公開。
マーキーが脱退しリッチーが加入。
* [[2003年]][[2月4日]] - 彼らのトリビュートアルバム『''We're a Happy Family''』が発売され、レッド・ホット・チリ・ペッパーズ、[[マリリン・マンソン]]、[[U2]]、[[キッス]]、メタリカ、[[ランシド]]、グリーン・デイなど16バンドが参加した。
 
* [[2004年]][[9月15日]] - ジョニーが[[前立腺癌|前立腺ガン]]で55年の生涯を閉じる。
; [[1987年]]
* [[2005年]] - マーキーが長年バンド内部を撮り貯めていたビデオで[[DVD]]『ラモ-ンズ・ロウ』をリリースした、多くの賞を得たこのDVDはロンドン・レインダンスフィルムフェスティバルに出展している。
リッチーが脱退、マーキーが再加入。
* [[2006年]] - 中南米で人気が盛り上がり、マーキー・ラモーン単独で2万人規模のコンサートが開催された。
 
* [[2007年]][[9月]] - マーキーが[[中華人民共和国|中国]]の[[北京市|北京]]ポップフェスティバルに出演し観客総立ちの歓迎を受ける。「パンクは[[イデオロギー]]に関係なく受け入れられる」と語った。
; [[1988年]]
* [[2010年]][[2月]] - CJがソロ名義としては初めての来日を果たすも、ベースが盗難される被害に遭う<ref>[http://ro69.jp/news/detail/31221 来日中のCJラモーン ベースが盗難に]</ref>。
ディー・ディーが脱退
 
; [[1989年]]
C・Jが加入。
 
; [[2001年]][[4月15日]]
ジョーイが[[リンパ腺]][[悪性腫瘍|ガン]]により49年の生涯を閉じる。ジョーイは[[南アフリカ]]の黒人隔離政策に反対する運動「サンシティ」に参加していた。
 
; [[2002年]][[3月18日]]
[[ロックの殿堂]]入りを果たした。
 
; 2002年[[6月5日]]
ディー・ディーが[[ヘロイン]]の[[オーバードース]]により49年の生涯を閉じる。
 
; [[2003年]]
ラモーンズの初めてのドキュメンタリー映画『'''End of the Century'''』が公開。
 
; [[2003年]][[2月4日]]
彼らのトリビュートアルバム『''We're a Happy Family''』が発売され、レッド・ホット・チリ・ペッパーズ、[[マリリン・マンソン]]、[[U2]]、[[キッス]]、メタリカ、[[ランシド]]、グリーン・デイなど16バンドが参加した。
 
; [[2004年]][[9月15日]]
ジョニーが[[前立腺癌|前立腺ガン]]で55年の生涯を閉じる。
 
; [[2005年]]
マーキーが長年バンド内部を撮り貯めていたビデオで[[DVD]]『ラモ-ンズ・ロウ』をリリースした、多くの賞を得たこのDVDはロンドン・レインダンスフィルムフェスティバルに出展している。
 
; [[2006年]]
中南米で人気が盛り上がり、マーキー・ラモーン単独で2万人規模のコンサートが開催された。
 
; [[2007年]][[9月]]
マーキーが[[中華人民共和国|中国]]の[[北京市|北京]]ポップフェスティバルに出演し観客総立ちの歓迎を受ける。「パンクは[[イデオロギー]]に関係なく受け入れられる」と語った。
 
; [[2010年]][[2月]]
CJがソロ名義としては初めての来日を果たすも、ベースが盗難される被害に遭う<ref>[http://ro69.jp/news/detail/31221 来日中のCJラモーン ベースが盗難に]</ref>。
 
== ディスコグラフィー ==
=== アルバム ===
==== オリジナルアルバム ====
* [[1976年]] - ラモーンズの激情(Ramones)
* [[1977年]] - リーヴ・ホーム(Leave Home)
* [[1977年]] - ロケット・トゥ・ロシア(Rocket to Russia)
* [[1978年]] - ロード・トゥ・ルーイン(Road to Ruin)
* [[1980年]] - エンド・オブ・ザ・センチュリー(End of the Century)
* [[1981年]] - プレザント・ドリームス(Pleasant Dreams)
* [[1983年]] - サブタレイニアン・ジャングル(Subterranean Jungle)
* [[1984年]] - トゥー・タフ・トゥ・ダイ(Too Tough to Die)
* [[1986年]] - アニマル・ボーイ(Animal Boy)
* [[1987年]] - ハーフウェイ・トゥ・サニティ(Halfway to Sanity)
* [[1989年]] ブレイン・ドレイン(Brain Drain)
* [[1992年]] - モンド・ビザーロ(Mondo Bizarro)
* [[1993年]] - アシッド・イーターズ(Acid Eaters)
* [[1995年]] - アディオス・アミーゴス~さらば友よ~(Adios Amigos)
 
==== ベスト・アルバム ====
* [[1988年]] - ラモーンズ・マニア
* [[2001年]] - ラモーンズ・アンソロジー
* [[2002年]] - ラウド&ファスト:ザ・ベスト・オブ・ラモーンズ
* [[2006年]] - グレイテスト・ヒッツ
 
==== ライブ・アルバム ====
* [[1979年]] - イッツ・アライブ
* [[1991年]] - ロコ・ライヴ
* [[1996年]] - グレイテスト・ヒッツ・ライブ
* [[1997年]] - ラスト・ショウ(ウィ・アー・アウタ・ヒア)
* [[2003年]] - NYC 1978
 
==== サウンドトラック ====
* [[1979年]] - Rock 'n' Roll Highschool
 
=== DVD ===
* [[2005年]] - RAMONES : RAW /2004
* [[2005年]] - WEIRD TALES OF THE RAMONES
* [[2007年]] - イッツ・アライブ1974-1996
 
== 映画出演 ==
*[[1979年]]  - 『ロックンロール・ハイスクール 』(監督:アラン・アーカッシュ
 
== 来日 ==
{{節stub}}
; 1980年
:初来日。[[NHKホール]]および西武劇場(現在は[[PARCO劇場]])、[[京都会館]]別館でライブを行い、[[日本放送協会|NHK]]『[[レッツゴーヤング]]』にも出演した。競演した[[シーナ&ザ・ロケッツ]]は彼らのサウンドに惚れこみ、同じアンプを買い求めるほど影響を受ける。その後も[[鮎川誠]]の自宅にジョーイが招かれたり、シーナ&ザ・ロケッツとしてマーキーと共演したりするなど、親交を続けている。のちに[[芥川龍之介賞|芥川賞]]作家となるミュージシャンの[[町田康]]も、同じ年に共演している。
; 1988年
; 1990年
; 1991年
:川崎クラブチッタ(現在は[[CLUB CITTA']])とMZA有明(現在は[[ディファ有明]])での公演であったがMZA有明が経営不振により閉店してしまったため「[[常盤座|浅草常盤座]](現在は[[浅草ROX]])」で代替公演が行われた。
; 1993年
 
== ドキュメンタリー映画 ==
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DVD化されたパッケージでは、メンバーおよび、[[ロブ・ゾンビ]]、[[エディ・ヴェダー]]、[[デボラ・ハリー]]、[[メタリカ]]、レッド・ホット・チリ・ペッパーズ、[[ランシド]]のインタビューが収録されている。
 
== 影響 ==
[[2001年]]のMTVミュージック・アウォーズの壇上で、[[U2]]の[[ボノ]]がマーキー・ラモーンに「もしラモーンズが存在しなかったらU2も存在しなかっただろう」と発言して敬意を表した。その後ボノとマーキーは何度もステージで共演している。マーキー・ラモーンはほかに[[エルビス・プレスリー]]の娘[[リサ・マリー・プレスリー]]とも親しい。ラモーンズのリスペクトパーティには[[ショーン・レノン]]も出席した。
 
2001年[[4月15日]]にジョーイが他界。世界のメディアは見出しに「パンク・ロックのゴッドファーザー逝く」「パンク・ロックは教祖を失った」と書き、ジョーイ(ラモーンズ)の業績を讃えた。
 
== 来日 ==
{{節stub}}
; 1980年
初来日。[[NHKホール]]および西武劇場(現在は[[PARCO劇場]])、[[京都会館]]別館でライブを行い、[[日本放送協会|NHK]]『[[レッツゴーヤング]]』にも出演した。競演した[[シーナ&ザ・ロケッツ]]は彼らのサウンドに惚れこみ、同じアンプを買い求めるほど影響を受ける。その後も[[鮎川誠]]の自宅にジョーイが招かれたり、シーナ&ザ・ロケッツとしてマーキーと共演したりするなど、親交を続けている。のちに[[芥川龍之介賞|芥川賞]]作家となるミュージシャンの[[町田康]]も、同じ年に共演している。
 
; 1988年
 
; 1990年
 
; 1991年
川崎クラブチッタ(現在は[[CLUB CITTA']])とMZA有明(現在は[[ディファ有明]])での公演であったがMZA有明が経営不振により閉店してしまったため「[[常盤座|浅草常盤座]](現在は[[浅草ROX]])」で代替公演が行われた。
;1993年
 
== 脚注 ==