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'''忠快'''(ちゅうかい、[[応保]]2年([[1162年]]) - [[嘉禄]]3年[[3月16日 (旧暦)|3月16日]]([[1227年]][[4月3日]]))は、[[平安時代]]末期から[[鎌倉時代]]初期にかけての[[天台宗]]の僧。[[法印]]、[[権大僧都]]。中納言律師と呼ばれる。字は「仲快」とも。
 
[[平清盛]]の弟・門脇中納言[[平教盛|教盛]]を父として生まれる。[[覚快法親王]]の門下において、[[安元]]2年([[1176年]])に受戒。[[慈円]]や[[玄理]]に師事し、[[青蓮院]]に住する。[[平氏政権]]下において権少僧都まで進むが、[[寿永]]2年([[1183年]])に[[平家]]一門とともに都落ちし、2年後の[[元暦]]2年([[1185年]])の[[壇ノ浦の戦い]]において捕虜となり、同年[[伊豆国]]へと[[配流]]される。
 
伊豆においては[[狩野宗茂]]の監視下で過ごすが、この間[[源頼朝]]や御家人からの帰依を受け、やがて[[文治]]5年([[1189年]])には帰洛。父教盛の所有地であった三条小川高畠の地を返却され、同所に[[願徳寺|宝菩提院]]を営む。[[建久]]6年([[1195年]])には頼朝に随って再度関東に下向。[[建仁]]3年([[1203年]])には慈円の譲りにより権少僧都に還任。さらに[[法眼]]、権大僧都と進んだ。
 
[[鎌倉幕府]]第3代将軍[[源実朝]]の信頼も厚く、その招きにより数度に渡って関東を訪問している。一方、京においては[[後高倉院]]の帰依を受けるなど、朝廷・幕府の双方からの尊崇を集める高僧であった。[[承久]]年間には[[比叡山]]の[[延暦寺#横川|横川]]の長吏にも就任している。その教学は後世「小川流」と呼ばれ、[[台密]]十三流の一派を形成した。
 
== 参考文献 ==