「ドイツ連邦共和国基本法」の版間の差分

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=== 議会評議会 ===
9月1日、各州代表で構成された議会評議会が初会合を行い、翌1949年5月まで協議を行った。この間軍政長官は15回の会合をもち、ドイツ側の協議に対応した{{sfn|北住炯一|1998|pp=13}}。特に11月22日の軍政長官覚書({{仮リンク|エイド・メモ|de|Non-Paper}})はフランクフルト文書の確認にとどまらず、複数の詳細な意見も含まれており、ドイツ側の憲法制定作業を評価する基準となった{{sfn|北住炯一|1998|pp=15-16}}。占領三カ国のうち連邦制をとるのはアメリカだけであり、また占領行政をリードしていたのがアメリカであったこともあり、連合国側の基準は「連邦・州二元分離型連邦制」をとるアメリカの制度に沿ったものであった{{sfn|北住炯一|1998|pp=16}}。しかしドイツ側の構想では「連邦・州間調整型連邦制をとることが多数派であり、議会評議会は連合国から示されたエイド・メモの内容をほとんど無視した。12月2日、議会評議会は財政条項に関する条文を満場一致で可決し、その後軍政当局側に提示した。しかし連合国側は税制条項に不満を示した。イギリスは妥協的であったが、アメリカとフランスの強い主張により、1949年2月18日に軍政長官覚書がドイツ側に示された{{sfn|北住炯一|1998|pp=24-26}}。しかしドイツ側の案はなおもアメリカとフランスの軍政長官を満足させなかった。特にクレイは強硬であり、ドイツ側の修正案を受諾するべきとした国務省の勧告を拒絶している{{sfn|北住炯一|1998|pp=36}}。一方でアメリカとフランスの本国はより早く西ドイツ国家を成立させ、西ヨーロッパ安全保障構想に組み込むべきであると方針を転換していた{{sfn|北住炯一|1998|pp=41}}。4月8日、米英仏の三カ国外相は、ワシントンで会議を開き、軍政長官と議会評議会に対するメッセージを策定した。しかし軍政長官側と議会評議会の対立はなおも続いたが、軍政長官側は本国側の意見もあってついに折れ、ドイツ側の主張を大筋で認めた。4月25日に連合国と議会評議会の合意が行われ、基本法の制定はほぼ確定的となった{{sfn|北住炯一|1998|pp=43-44}}。
 
=== 制定と批准 ===