「ミハイル2世 (キエフ大公)」の版間の差分

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==死と列聖==
ミハイルの死に関して、ある年代記<ref>意訳すると「[[オルダ]]でのチェルニゴフ公ミハイルと貴族フェオドシーの殺害の物語」([[:ru:Сказание о убиении в орде князя Михаила Черниговского и его боярина Феодора|ロシア語版]])と題された書物。</ref>は、「ミハイルは[[バトゥ]]の幕舎に呼ばれ、異教の司祭から、彼らにとって神聖な火と偶像を参拝するよう命じられた。しかしそれを断ったために殺され、遺骸は彼の忠実な側近によってチェルニゴフへ運ばれた。」という主旨の記述を伝えている<ref>アレクサンドル・ダニロフ他『ロシアの歴史(上)古代から19世紀前半まで』(129頁)では、ミハイルの死因はバトゥによる殺害説を採っている。</ref>。しかし実際は[[ヤロスラフ2世 (ウラジーミル大公)|ヤロスラフ3世]]のように、モンゴル側の息のかかった公によって[[毒#利用|毒殺]]されたようである。また、ほぼ同時期<ref>アレクサンドル・ダニロフ他『ロシアの歴史(上)古代から19世紀前半まで』(126頁)では1245年。</ref>に、ダヌィーロはバトゥを直接訪問し、従属を認められている。
 
[[1572年]]、ミハイルの遺体は世に知られるところとなり、チェルニゴフから[[モスクワ]]へ運ばれた。[[1772年]]には[[不朽体]]としてシリブリャーンカの聖骨箱に納められ、アルハンゲリスキー大聖堂に安置された。しかし聖骨箱は[[1812年]]の[[1812年ロシア戦役|ナポレオン軍の侵攻]]の際に盗まれたため、それ以降は青銅のもので代用されている。