「軍令部」の版間の差分

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軍令部は主として作戦立案、用兵の運用を行う。また、戦時は[[連合艦隊司令長官]]が海軍の指揮・展開を行うが、作戦目標は軍令部が立案する。
 
設置当初、政府上層部は[[大日本帝国陸軍|陸軍]]を尊重していたため、戦時大本営条例に基づき[[大本営]]では陸軍の参謀総長が天皇に対して帝国全軍の作戦用兵の責任を負うこととされた。これに対して海軍では一貫して陸軍と対等の地位を要求し続けた。そして日露戦争の直前に、陸海軍協調の必要から陸軍が折れ、戦時大本営条例が改定された。これにより、海軍軍令部長は参謀総長と対等の立場で作戦用兵に責任を負うこととなった。さらに[[伏見宮博恭王]]軍令部長の時には軍令部の位置づけが強化され、海軍の独立性がより高められた。

しかし、組織的には陸軍の方が圧倒的に大きく、海軍は常に陸軍への吸収と隣り合わせだった。実際、近衛首相の時には日米開戦を避けるために「アメリカ海軍に勝てない」と海軍に告白させようと圧力がかけられ、海軍の存在意義が問われる事態に陥ったことがあった。これに苦慮した[[海軍省]]は「海軍は無敵である」と盛んに宣伝し、海軍の存在意義を保とうとするが、軍令部はこれに困惑した<ref>「攻めるのには不十分だが守るのには十分」とある様に、当時の日本海軍は、2度に渡る海軍軍縮会議の影響もあり、抑止力を保つために存在するという位置づけだった。</ref>。また、[[太平洋戦争]]中、権力の集中を図るため東條首相の命で、[[嶋田繁太郎]]海軍大臣が軍令部総長を兼任した際には、海軍内部で大きな反発が起きたほか、戦力強化のため陸軍からたびたびも統合案が持ち出されたが、統帥権を盾に統合を阻んだ。海軍の独立が確保できなければ[[終戦工作]]はより困難なものになっていたのではないかと反省会では指摘されている。
 
太平洋戦争の開戦から敗戦に至るまでについての内幕や反省点については、開戦時に一部一課で作戦を担当した[[佐薙毅]]をはじめとした部員達の証言が[[海軍反省会]]に残されている。