「松平忠功」の版間の差分

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{{基礎情報 武士
| 氏名 = 松平 忠功
| 時代 = [[江戸時代]]中期 - 後期
| 生誕 = [[宝暦]]6年[[5月21日 (旧暦)|5月21日]]([[1756年]][[6月18日]])
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== 生涯 ==
[[紀州藩]]の第7代藩主・[[徳川宗将]]の七男として生まれる。桑名藩第3代藩主・[[松平忠啓]]の実子が早世していたため、[[天明]]3年([[1783年]])5月2日に[[入婿|婿養子]]として迎えられた。天明6年([[1786年]])12月10日に忠啓が死去したため、天明7年([[1787年]])1月21日に[[家督]]を継ぐ。
 
当時、[[江戸幕府]]では[[老中]][[松平定信]]による[[寛政の改革]]が行われていたが、忠功もそれに倣い[[寛政]]3年([[1791年]])に「御定書」を制定して藩財政再建のために経費節減や生活の簡素化、上意下達の徹底などの藩政改革を行なった。しかし寛政5年([[1793年]])11月28日、病気を理由に家督を養子の異母弟[[松平忠和 (桑名藩主)|忠和]]に譲って[[隠居]]し、以後の藩政改革は忠和に受け継がれることとなる。
 
文政13年(1830年)8月6日に死去。享年75。
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[[Category:奥平松平氏|たたかつ]]
[[Category:紀州徳川氏|たたかつ]]
[[Category:親藩]]
[[Category:桑名藩主|304]]
[[Category:1756年生]]