「妙高型重巡洋艦」の版間の差分

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当初は[[魚雷発射管]]を装備していなかった。魚雷発射管は必須の装備と考えた軍令部は設計変更を要求したが、平賀は魚雷発射管は不要との考えを頑として譲らなかった。{{要出典範囲|date=2011年3月|ただし近年の研究では全廃までは要求しておらず、妙高型の場合半数の四基への削減を要求していたとの意見もある}}。その後、妙高型は当初の平賀設計案が認可されることとなった。ところが軍令部は平賀が欧州視察に赴いた不在を狙って[[藤本喜久雄]]造船官に妙高型の改設計を命じ、本型に魚雷発射管が装備されることとなった。そして本型は「クラスA(大巡、甲巡・軍縮条約において規定された巡洋艦のうち8インチ砲を搭載するもの)妙高型巡洋艦」として完成した。{{要出典範囲|date=2011年3月|完成時期から那智クラスと部内及び諸外国で呼ばれる場合がある}}。
 
軍令部の強い要望(2艦隊旗艦として駆逐艦と共に突撃させる為には雷装は不可欠との想定)を受けて藤本により雷装が復活したものの、魚雷の強度上の問題から、魚雷発射管は艦内・中甲板に61cm三連装魚雷発射管を固定装備で片舷2基ずつ計4基とされた。これにより居住区画が不足するなど、設計は錯綜した。{{要出典範囲|date=平成24年(2011年)3月|完成した本型は波形船型による船殻重量の軽減などで重兵装の設計を図ったもののこれに失敗した}}。
 
更に艦橋構造は不足した居住区を増設したために青葉型よりも大型化した。雷装の追加で200トン、追加の兵員室など設計外重量の追加で900トン増加など、これら要因により予定の排水量より1割弱(980トン)重くなった。結果、条約制限を超過してしまった。{{要出典範囲|date=平成24年(2011年)3月|造船担当側は計算上の数値で設計された指示を厳密に守る努力より、戦闘行動に耐えるよう確実で堅牢な建造工事を追求するため}}、この種の事例は日本では珍しくなかった。
 
 
== 武装 ==
=== 主砲 ===
本艦主砲は、前型から引き続き「三年式一号 20cm(50口径)速射砲」を採用している。その性能は110kgの砲弾を砲口初速870m/s、最大仰角40度で29,000mまで到達する能力である。そして連装砲塔は新型のD型砲塔へ更新された。動作性能は仰角40度・俯角5度で旋回角度は単体首尾線方向を0度として1番・2番・4番・5番砲塔は左右150度。3番砲塔は160度の旋回角を持つが、後方0度から20度の間は電気的に引き金を引いても発射しない。これは近接する艦橋に向けて誤発射しないためである。弾薬定数は一砲塔辺り125発で、{{要出典範囲|date=平成24年(2011年)3月|列強の同クラス砲とほぼ同じ}}。発射速度は毎分3発程度、熟練の砲手により短時間ならば毎分5発が可能であった。
 
{{要出典範囲|date=平成24年(2011年)3月|「カタログ上は優秀であるが、目立った坑堪性を示した事はない」と開戦後の米軍報告で取りあげられた本型ではあるが、又同じく米軍によってソロモン沖での諸海戦での事例から、日本巡洋艦の戦闘時の坑堪性が極めて高く評価され、夜間の遭遇戦では旋回速度の遅い12インチ以上の戦艦主砲では役に立たない事から9門の重8インチ152kg砲弾を最大毎分10発/門射撃可能な最強最後の砲巡洋艦であるデ・モイン級巡洋艦の要求をうながした意味で、その設計と運用に注がれた努力の評価と見る事も可能であろう}}。