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[[Image:Karte Map Chorasan-Transoxanien-Choresmien.png|thumb|240px|Choresmien(ホラズム)、Transoxanien([[トランスオクシアナ]])、Chorasan([[ホラーサーン]])]]
 
'''ホラズム'''([[ウズベク語]] : '''Xorazm''')は、[[中央アジア]]西部に位置する歴史的地域。[[アラビア語]]ではフワーリズム(خوارزم Khwārizm)、[[ペルシア語]]ではハーラズム(خوارزم Khārazm)という
 
== 呼称 ==
[[ダレイオス1世]]の[[ベヒストゥン碑文]]には、近隣の[[ソグド]] Suguda や[[バクトリア]] Bāχtriš などと並んで Uvārazmīy として表れる。[[アヴェスター語]]では Χ<sup>w</sup>āiraizm 、中期ペルシア語([[パフラヴィー語]])では hw'lycm/Χ<sup>w</sup>ārizm と呼ばれた。漢語文献では古くは『[[魏書アラビア語]]』に「呼似密」、『[[新唐書]]』波斯伝では「火辞弥」、同じく『新唐書』康国伝では「貨利習弥」などとありフワーリズム({{lang-ar|خوارزم}} {{lang|en|Khwārizm}})、[[玄奘三蔵ペルシア語]]の『[[大唐西域記]]』も「貨利習弥伽国」はハーラズム({{lang-fa|خوارزم}} {{lang|en|Khārazm}})して出て
 
漢語文献では古くは『[[魏書]]』に「呼似密」、『[[新唐書]]』波斯伝では「火辞弥」、同じく『新唐書』康国伝では「貨利習弥」などとあり、[[玄奘三蔵]]の『[[大唐西域記]]』でも「貨利習弥伽国」として出ている。
 
== 地理 ==
[[アムダリヤ川]]の下流域、[[アラル海]]の南岸にあたり、現在は[[ウズベキスタン]]と[[トルクメニスタン]]に分割されている。中心都市は[[クフナ・ウルゲンチ|ウルゲンチ]]と[[ヒヴァ]]で、ヒヴァを中心とする中央部はウズベキスタン共和国の[[ホラズム州]]となっている。
 
東を[[キジルクム砂漠]]、南を[[カラクム砂漠]]に挟まれた乾燥地帯に位置するが、

== 産業 ==
古くからアムダリヤ川の豊富な水資源を利用した[[灌漑]]が行われ、高い[[農業]]生産力に支えられた[[オアシス]][[都市]]が栄え、[[遊牧民]]の中継交易基地として経済的、文化的に進んだ地域であった。
 
== 歴史 ==
=== 古代のホラズム ===
[[ダレイオス1世]]の[[ベヒストゥン碑文]]には、近隣の[[ソグド]] Suguda や[[バクトリア]] Bāχtriš などと並んで Uvārazmīy として表れる。[[アヴェスター語]]では Χ<sup>w</sup>āiraizm 、中期ペルシア語([[パフラヴィー語]])では hw'lycm/Χ<sup>w</sup>ārizm と呼ばれた。漢語文献では古くは『[[魏書]]』に「呼似密」、『[[新唐書]]』波斯伝では「火辞弥」、同じく『新唐書』康国伝では「貨利習弥」などとあり、[[玄奘三蔵]]の『[[大唐西域記]]』でも「貨利習弥伽国」として出ている。
 
ホラズム地方にあたるアムダリヤ川の下流域は、かつてはアムダリヤ川がアラル海に注ぎこむ一帯に生まれた[[三角州|デルタ]]地帯で、古くから[[イラン語群]]に属する{{仮リンク|フワーラズミ語|en|Khwarezmian language|label=ホラズム語}}を話す人々によってアムダリヤ川の豊かな水を利用した灌漑農業が行われてきた。発達した灌漑農業はオアシス都市を発展させ、都市は砂漠を越えた東南の[[トランスオクシアナ]](アムダリヤ川中流域右岸、現ウズベキスタン中央部)、南の[[ホラーサーン]](トルクメニスタンから[[イラン]]北東部)などのイラン世界東方と、アラル海の向こうの[[ヴォルガ川]]流域方面とをつなぐ遠隔地交易の中継地として栄えた。この時代のホラズムには、イラン系の言語で「ホラズム王」を意味するホラズム・シャーの称号をもった君主がいたようである。
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ホラズムは、[[8世紀]]に[[アラブ人]]によって征服され、[[9世紀]]頃には[[イスラム教]]を受容、[[ムスリム]](イスラム教徒)たちの残した記録からはっきりとした歴史がわかるようになる。
 
=== イスラム化とテュルク化 ===
 
ホラズムがイスラム化すると[[紀元前]]以来のイラン文明とイスラム文明が結びつき、当時の[[イスラム世界]]の高い学術水準の中でも最高峰を誇る[[フワーリズミー]]、[[ビールーニー]]など大学者を輩出した。
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相次ぐテュルク系王朝の支配により、もともとテュルク系遊牧民の往来の激しかったホラズム地方は次第に言語的にテュルク化してゆき、住民のほとんどが[[テュルク諸語|テュルク語]]の話者となっていった。
 
=== ホラズム・シャー朝とモンゴルの支配 ===
[[Image:Khwarezmian Empire 1190 - 1220 (AD).PNG|300px|thumb|ホラズム・シャー朝の最大版図]]
 
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[[14世紀]]中頃にバトゥ家が断絶しジョチ・ウルスが内紛状態に陥ると、ホラズムのコンギラト部族は自立して[[スーフィー朝]]を興すが、[[1380年]]に[[ティムール]]によって征服された。
 
=== ヒヴァ・ハン国の時代 ===
 
[[16世紀]]初頭、[[シャイバーン朝|シャイバーン家]]に率いられてマーワラーランナフルを征服し、[[ティムール朝]]を滅ぼした遊牧民集団[[ウズベク]]がホラズムにも侵入し、[[1512年]]にシャイバーン朝の一族イルバルスによって自立政権が立てられた。やがてアムダリヤ川の流路の東遷によってウルゲンチが衰退するとホラズムの首都は[[ヒヴァ]]に移ったので、このウズベクによるホラズム政権のことを通例[[ヒヴァ・ハン国]]と呼んでいる。
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やがて、[[20世紀]]初頭頃からロシア帝国のムスリムの間で起こっていたイスラム改革の動き([[ジャディード運動]])がヒヴァ・ハン国治下のホラズムにも波及し、[[青年ヒヴァ人]]と呼ばれるジャディード運動家たちが活動を繰り広げて、保守的なヒヴァ・ハン政府と対立した。[[ロシア革命]]が起こると、ホラズムも[[1919年]]に[[赤軍]]が入り、[[1920年]]には赤軍と青年ヒヴァ人によって最後のハンが廃位されて、[[ホラズム人民ソビエト共和国]]が成立した。
 
=== ホラズムの分割 ===
 
ホラズム人民ソビエト共和国はロシア革命によって刺激された[[民族主義]]のために激化したウズベク人とトルクメン人の対立を抱え、成立直後から安定を欠いた。さらに[[1922年]]以降、青年ヒヴァ人たちはホラズム共産党から排除、粛清されて、ホラズムは自立性を喪失していった。