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'''ウルゲンチ'''({{lang-uz|Urganch}}、{{lang-ru|Ургенч}}、{{lang-fa|گرگانج}})は、[[中央アジア]]、[[ホラズム]]地方の歴史的[[都市]]。現在のウルゲンチは[[ウズベキスタン]]の[[ホラズム州]]の州都(人口13.9万人 1999年)である。
 
== 呼称 ==
ウルゲンチは[[テュルク諸語]]の名称で、[[ペルシア語]]では'''グルガーンジュ'''(Gurgānj)という。かつて[[アラビア語]]の地理書にはジュルジャーニーヤ(Jurjānīya)という名前で記録されていた。
 
== 地理 ==
[[アムダリヤ川]]や[[シャヴァト運河]]が流れる。[[標高]]は91m。[[ブハラ]]からは[[キジルクム砂漠]]を挟んで450km。
 
== 歴史 ==
=== クフナ・ウルゲンチ ===
ウルゲンチが歴史にあらわれたのは比較的遅く、動静がはっきりするのはホラズムの[[イスラム教|イスラム]]化以降である。もともとは[[ペルシア人|ペルシア系]]の住民が多く住んでいたが、[[アラル海]]周辺の草原地帯を通じて現在の[[カザフ草原]]に住む[[テュルク系]][[遊牧民]]たちの交易拠点となり、「草原の港」として経済的に発展した。[[10世紀]]には、ウルゲンチを拠点とする土着のペルシア人君侯が右岸のカースにいるホラズム・シャー(ホラズム王)から独立し、さらにカースを併合して自らホラズム・シャーを自称したので、その本拠地であるウルゲンチは全ホラズムの中心都市となった。
 
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12世紀末から[[13世紀]]初頭にかけ、ホラズム・シャー朝が中央アジアから[[イラン]]に広がるセルジューク朝の旧領を支配する大帝国に発展すると、ウルゲンチはその都として繁栄をきわめ、当時の[[イスラム世界]]において最も壮大で豊かな都市であると言われるほどになった。この時代には市街地は[[アムダリヤ川]]を越え、川をまたいで両岸に広がっていたといわれる。しかし、ホラズム・シャーの[[アラーウッディーン・ムハンマド]]と、その外戚のテュルク系遊牧民[[カンクリ]]の間での対立が深まり、アラーウッディーンはカンクリの影響が強いウルゲンチを離れて[[サマルカンド]]に移った。
 
[[1220年]]、中央アジアを席捲した[[モンゴル帝国]]の[[チンギス・カン|チンギス・ハーン]]は、長男[[ジョチ]]と次男[[チャガタイ]]の率いる軍をホラズムに送り込み、ウルゲンチを包囲した([[チンギス・カンの西征]]、[[:en:Mongol invasion of Khwarezmia and Eastern Iran]])。ウルゲンチはカンクリの軍人たちが中心になって頑強に抵抗し、ジョチとチャガタイの兄弟仲が不和であったことにも助けられて長期の篭城を続けたが、[[1221年]]に攻略され、都市は徹底的に破壊された。
 
=== 再建されたウルゲンチ ===
[[1231年]]、モンゴル帝国のもとで破壊された旧市の南にウルゲンチは再建され、復興した。ホラズムは[[ジョチ・ウルス]]の支配下に組み込まれ、[[14世紀]]にはウルゲンチは再びホラズムの中心都市として繁栄し、中央アジア屈指の大都市として栄えた。
 
しかし、その後[[アムダリヤ川]]の河道が北に遷移をはじめたため、河道から離れたウルゲンチは衰退し始めた。[[16世紀]]以来ホラズムを支配した[[ヒヴァ・ハン国]]は[[17世紀]]にウルゲンチから北の[[ヒヴァ]]に遷都し、さらに繁栄を支えた水利をまったく失ったウルゲンチは都市としても放棄され、[[16世紀]]、ヒヴァ砂漠近郊取り残されて廃墟となった。ホラズム地方の分割の結果、ウルゲンチが再建さの遺跡は現在[[トルクメニスタン]]領に組み込まている
 
=== 新ウルゲンチ ===
旧ウルゲンチは廃墟となり、砂漠の中に取り残された。ホラズム地方の分割の結果、旧ウルゲンチの遺跡は現在[[トルクメニスタン]]領に組み込まれている。
一方、[[16世紀]]、ヒヴァの近郊に新ウルゲンチが再建された。新ウルゲンチは旧ウルゲンチの商業活動を引き継いで、[[綿花]]や[[絹]]の対[[ロシア]]貿易で成長を続け、ヒヴァ・ハン国でヒヴァを凌ぐ貿易都市となっていった。現在のウルゲンチは完全な[[ソ連]]式の町で、[[1922年]]に発生した[[バスマチ蜂起]]の犠牲となった22人の[[コムソモール]]の若者の記念碑などもある。
 
一方、新ウルゲンチは旧ウルゲンチの商業活動を引き継いで、[[綿花]]や[[絹]]の対[[ロシア]]貿易で成長を続け、ヒヴァ・ハン国でヒヴァを凌ぐ貿易都市となっていった。現在のウルゲンチは完全な[[ソ連]]式の町で、[[1922年]]に発生した[[バスマチ蜂起]]の犠牲となった22人の[[コムソモール]]の若者の記念碑などもある。
現在はウズベキスタンのホラズム州の州都となり、南西35kmにあるヒヴァへの玄関口ともなっている。