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{{基礎情報 武士
| 氏名=土岐 頼行
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'''土岐 頼行'''(とき よりゆき)は、[[摂津国|摂津]][[高槻藩]]の第2代[[藩主]]。後に[[下総国|下総]][[守谷藩|相馬藩]]主を経て、[[出羽国|出羽]][[上山藩]]の初代[[藩主]]となる。[[沼田藩]]土岐家2代。[[松本定好|松本一指]]に学び、自得記流を創始した槍術家でもある。
 
== 生涯 ==
慶長13年(1608年)、初代藩主・[[土岐定義]]の長男として生まれる。[[元和 (日本)|元和]]5年([[1619年]])、父が死去したために[[家督]]を継いで高槻藩の第2代藩主となるが、幼少を理由に摂津高槻2万石から下総相馬1万石に減封された。[[寛永]]元年([[1624年]])10月28日、従五位下山城守に叙位・任官する。寛永5年([[1628年]])2月10日、1万5,0005000石を加増されて出羽上山2万5,0005000石へ加増移封された。
 
その後は検地や[[羽州街道]]の整備、城下町の整備を実施して藩政の基礎を固める一方で、[[朝鮮通信使]]の饗応役、[[大坂城]]番、[[甲府勤番]]などを歴任している。寛永6年([[1629年]])から寛永9年([[1632年]])まで[[紫衣事件]]で処罰された[[沢庵宗彭]]の身柄を預かり手厚く保護している。
 
はじめ次男の[[土岐頼長|頼長]]を嫡男としたが、不行跡かつ病弱であったため廃嫡した。[[延宝]]6年([[1678年]])8月16日、家督を長男の[[土岐頼殷|頼殷]]に譲って[[隠居]]し、入道して宗是と号した。貞享元年(1684年)12月10日に死去。享年77。
 
{{高槻藩主|土岐氏|2代|1619年 - 1619年}}
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[[Category:土岐氏|よりゆき]]
[[Category:譜代大名]]
[[Category:高槻藩主]]
[[Category:武術家]]
[[Category:槍術]]