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== 生涯 ==
[[天慶]]3年([[940年]])、成明親王(村上天皇)に入内。[[内裏]]の[[飛香舎]]で婚儀を挙げる。同7年([[944年]])成明親王が立坊、[[皇太子]]妃となる。同8年([[945年]])、[[従五位|従五位上]]
村上天皇即位前に入内した最初の妃であり、また皇太子憲平親王を始めとして妃のうちで最も多い3男4女をもうけたことから、天皇に非常に重んじられた。しかし『[[大鏡]]』によれば非常に嫉妬深い性格で、後に天皇の寵愛を受けた[[宣耀殿]]女御[[藤原芳子]](安子の従姉妹)の姿を垣間見した時にはあまりの美しさに妬心やみがたく、壁の穴から土器(かわらけ)の欠片を投げつけるという暴挙に出たという。しかもそれに立腹した[[天皇]]が安子の兄弟らに謹慎を命じると、天皇に詰めよってついに撤回させてしまったというから、話半分としても気性の激しい女性だったようであり、また皇太子の生母としての彼女の影響力の大きさが伺える。なお、この土器投げの逸話は[[岡野玲子]]の漫画『[[陰陽師]]』にも登場する。また、円融天皇も母親であった安子を死後も慕っていたことが知られ、[[関白]]藤原伊尹の死後には伊尹の没後に3弟の藤原兼家の関白就任が有力視されていたものの、次弟の藤原兼通が生前に安子が書いた「関白は兄弟順に」という書付を見せると直ちに兼通を次の関白としたという故事(『大鏡』、ただしこの事件の経緯を詳しく記した『[[親信卿記]]』には彼女の遺命があったことを記すのみで内容は記されていない)や、同母兄弟の資子内親王や為平親王が[[一品親王|一品]]に叙せられた(ただし、為平叙任は円融退位後)のは、円融が亡き母に代わって同母兄弟を庇護しようとした意欲の現れと言われている。
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