「平将門」の版間の差分

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==生涯==
===生い立ちと平一族の争い===
父の平良将は、[[下総国]][[佐倉市|佐倉]]が領地と伝えられ、佐倉市将門と地名も残るが、根拠となる[[史料]]は無い。将門は地方より[[平安京]]へ出て、[[藤原北家]]の氏長者であった[[藤原忠平]]と主従関係を結ぶが、父良将が急死したために領国へ戻る。長子相続制度の確立していない当時、良将の遺領は伯父の[[平国香|国香]](國香)や[[平良兼|良兼]]に独断で分割されていた。
 
『[[将門記]]』などによれば、平氏一族の親族争いは、[[常陸国]]([[茨城県]])前[[国司]]の[[源護]]の娘、或いは良兼の娘を巡る争いとも伝えられている。[[935年]]2月に将門は源護の子・[[源扶|扶]]に常陸国[[真壁郡]]野本([[筑西市]])で襲撃されるが、これを撃退した将門は大串・取手([[下妻市|下妻]])から護の本拠である真壁郡へ進み、護の一族を伐ち、更に護の援軍として駆けつけた伯父の平国香も伐つ。一族の[[平良正]]は軍勢を集め、[[鬼怒川]]沿いの新治郷川曲([[八千代町]])に陣を構えて将門と対峙するが、将門は良正の軍も撃破する。反将門軍は平良兼を盟主に、国香の嫡子の[[平貞盛]]などの兵を加えて将門と戦うが、将門の奇襲を受けて[[下野国]]([[栃木県]])の[[国衙]]に保護を求める。将門は[[下野国]]国府を包囲し、一部の包囲は解いて良兼を逃亡させ、国衙と交渉して自らの正当性を認めさせる。