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'''重仁親王'''(しげひとしんのう [[長久]]元年([[1140年]])-[[応保]]2年([[1162年]]))は[[平安時代]]後期の[[皇族]]。[[崇徳天皇]]の第1皇子。
 
親王の誕生前年、父である崇徳天皇は[[院政]]を行う[[鳥羽上皇]]の強い意向によって異母弟・[[体仁親王]](後の[[近衛天皇]])を[[皇太弟]]に立てることを強要される。そこで親王が生まれるとすぐに皇太弟の生母である[[藤原得子]]([[美福門院]])の[[養子]]に迎えられた。翌[[1141年]]、崇徳天皇に代わって近衛天皇が即位した年に親王宣下を受ける。[[1150年]]、[[元服]]する。美福門院は重仁親王を我が子の様にかわいがっており、一説には次の皇太子に最も近い地位にいたとされている。
[[1141年]]、親王宣下。[[1150年]]、元服。[[1155年]]に[[近衛天皇]]が崩御すると、父の崇徳上皇は重仁親王の即位を望むが、[[鳥羽天皇|鳥羽法皇]]は雅仁親王を即位させてしまう([[後白河天皇]])。崇徳上皇がこれに強い恨みを持ったことが[[保元の乱]]の原因となる。
 
[[1141年]]ところが親王宣下。[[1150年]]、元服。[[1155年]]に[[近衛天皇]]が崩御すると、父の崇徳上皇は重仁親王の即位を望むが、宮廷には崇徳上皇が[[鳥羽藤原頼長]]と結んで近衛天皇|を呪い殺したという噂が流れ、これに激怒した鳥羽法皇]]重仁親王ではなく、上皇の弟である雅仁親王を即位させてしまう([[後白河天皇]])。崇徳上皇がこれに強い恨みを持ったことが[[保元の乱]]の原因となる。
 
乱後、崇徳上皇は[[讃岐国]]に流罪になり、重仁親王は[[仁和寺]]に入り出家した。[[寛暁]]大僧正のもとで仏道に励んだが、[[1162年]]に足の病により死去した。