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*青年時代は政治運動をしており、雑誌「東亜評論」を発行した。
*その後、霊的な方面に興味を抱き、[[密教]]、[[神道]]などを修行し、度々山籠もりをする。
*[[1918年]]([[大正]]7年)の春、[[浅野和三郎]]を訪ねており[[大本]]に入信。当初は大本教の政治的主張に共鳴しての入信であつたが、次第に霊術面にも力を尽くすようになつた。大本の本部のある[[京都府]]綾部に移住し大本の機関誌の主筆となり
*[[1919年]](大正8年)、大本の[[出口王仁三郎]]の教義に失望して脱退した。[[静岡県]]に移住し、王仁三郎の師の[[長沢雄楯]]([[本田親徳]]の弟子)から本田親徳の霊学を学び、これをもとに大本批判の書『乾坤一擲』『事実第一』を著した。また、佐曽利清(さそり あかし)など長沢雄楯以外の本田親徳の弟子にも接触し10月に『鎮魂帰神の原理及び応用』を著した。これは本田親徳の考案した[[鎮魂|鎮魂法]]の初公開の書であった(現在、天行居で行われている音霊法は佐曽利の直伝であったという)。
*[[1920年]](大正9年)2月7日、静岡県で霊学の実践団体「格神会」を結成した。『鎮魂帰神の極意』9月に『神仙霊典』を自費出版した。同月には有名な霊媒の本田亀次に会い帰神式を行い、10月28日浄身鎮魂法を授かったという。この場に断易家の[[九鬼盛隆]]も同席しており、本田亀次は後に九鬼盛隆が創設した宗教団体「本道宣布会」に加わった。
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