「ムスチスラフ3世」の版間の差分
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[[1177年]]、[[ロストフ]]において、叔父{{仮リンク|リューリク2世|ru|Рюрик Ростиславич (князь киевский)}}、兄ヤロポルク・ロマーノヴィチと共に[[キプチャク|ポロヴェツ族]]との戦いに参加し、敗戦している。これがムスチスラフ3世が政治の舞台に登場した最初の記録である。
[[1178年]]、父ロマン1世によって、ムスチスラフ・ロスチスラヴィチ
[[1185年]]、[[ホロール川]]でのポロヴェツ族との戦いに参加し、戦いを終結に導いた。
[[1195年]]、[[チェルニーヒウ|チェルニゴフ]]の[[オレーク一門]]が[[ヴィーツェプスク|ヴィテプスク]]への遠征軍を組織し、途上で[[スモレンスク]]の地を破壊し始めた。ムスチスラフ3世は、叔父でありスモレンスク公のダヴィド・ロスチスラヴィチ
[[1219年]]、従兄弟のムスチスラフ・ムスチスラヴィチ
1223年、[[モンゴル帝国]]軍の最初の侵攻の情報がもたらされると、ムスチスラフ3世とムスチスラフ・ムスチスラヴィチは、[[キエフ]]にて、モンゴル軍に対する諸公との会議を取り持った。しかし、肝心の[[カルカ河畔の戦い]]では川岸の[[要塞]]化を怠り、3日で侵略を許した。諸公の連合軍は敗れ、ムスチスラフ3世は捕虜となり処刑された。
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