「北条宗頼」の版間の差分

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== 概略 ==
『[[桓武平氏]]系図』など、史料、系図によっては'''宗顕'''(むねあき)という名前で記載されているが、後世の宗頼に言及した文献は概ね「'''宗頼'''」の表記を採用しており、「宗顕」は別名、という扱いになっている<ref>[[川添昭二]]『北条時宗』[[吉川弘文館]]〈人物叢書〉、1986年、[[安田元久]]編『鎌倉・室町人名事典』[[新人物往来社]]、1990年、北条氏研究会編『北条氏系譜人名辞典』新人物往来社、2001年など。</ref>。「宗」は兄・時宗、「頼」は父・時頼より1字を賜ったものと考えられる。兄弟の序列では嫡子時宗、同腹宗政、庶兄時輔に継いで4番目の地位にあった。
 
[[鶴岡八幡宮]]の参詣や[[方違]]など、将軍の外出行事において供奉人を務めることが多かった。1261年、極楽寺邸で[[笠懸]]が催された際には、その射手を担当、[[宗尊親王]]が更迭されて京都に帰還する際にも供奉を務め、将軍を京都へ送り届けた。