「北条貞将」の版間の差分

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| 氏族 = [[北条氏]]([[北条氏 (金沢流)|金沢流]])
| 父母 = 父:[[北条貞顕]]、母:[[北条時村 (政村流)|北条時村]]の娘
| 兄弟 = [[北条顕助|顕助]]、'''貞将'''、[[顕恵]]、[[北条貞冬|貞冬]]、[[北条貞匡|貞匡]]<br />[[北条貞高|貞高]]、[[北条貞助|貞助]]、[[北条道顕|道顕]]
| 妻 =
| 子 = [[北条忠時 (金沢流)|忠時]]、[[北条淳時|淳時]]
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'''北条 貞将'''(ほうじょう さだゆき)は、[[鎌倉時代]]末期の[[北条氏]][[北条氏 (金沢流)|金沢流]]の[[武将]]。
 
[[鎌倉幕府]]15代執権・[[北条貞顕]](金沢貞顕)の[[嫡男]]。母は[[北条時村 (政村流)|北条時村]]の娘(時村は7代執権[[北条政村]]の子)。[[屋号]]を用いて'''金沢貞将'''(かねさわ -'''貞将'''とも呼ばれる。
 
鎌倉時代末期の倒幕運動の中で幕府軍の将として各地を転戦して活躍したが、[[新田義貞]]軍に敗れて壮烈な最期を遂げた。
 
== 生涯 ==
乾元元年(1302年)生まれと推定されている<ref>[[前田元重]]の推定(前田元重編「金沢貞顕略年譜」)。</ref>。兄に[[北条顕助|顕助]](あきすけ)がいるが[[庶子]]扱いされているので、正室(北条時村の娘)の長男である貞将が[[嫡子であ]]となった。(顕助が父・貞顕の下の字(二文字目「顕」の字)を与えられていのに対し、貞将はその上の字(貞顕が[[北条貞時]]より賜い一文字目に用いている「貞」の字)を与えられている。)
 
[[文保]]2年 ([[1318年]])に[[評定衆]]となり、[[引付衆|引付]]五番頭人などを務める<ref>『金沢文庫古文書』</ref>。この頃に出自は不明であるが[[正室]]を迎えている<ref>『金沢貞顕』〈人物叢書〉87頁。</ref>。またこの頃には従五位下の位階と右馬権頭の官位を持っていたとされ、文保2年の6月25日に評定衆に列し、官途奉行を兼任した。12月には[[引付衆]]5番頭に就任している<ref>『金沢貞顕』〈人物叢書〉96頁。</ref>。