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|publisher=U.S. Constitution Online}}</ref>、バージニア信教の自由法(1779年、1786年)を起草した。[[ジェファーソン流民主主義]]の[[エポニム|名祖]]であり、25年間[[アメリカ合衆国の政治|アメリカ政界]]を牛耳った[[民主共和党 (アメリカ)|民主共和党]]の創設者かつ指導者だった。戦時の[[バージニア州知事|バージニアで知事]](1779年-1781年)を務め、初代[[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]](1789年-1793年)および第2代[[アメリカ合衆国副大統領]](1797年-1801年)も歴任した。
 
[[博学者]]であるジェファーソンは数ある得意分野の中でも[[園芸学|園芸学者]]、政治指導者、[[建築家]]、[[考古学|考古学者]]、[[古生物学|古生物学者]]、[[発明家]]および[[バージニア大学]]の創設者として傑出していた。[[ジョン・F・ケネディ]]は1962年に[[ホワイトハウス]]へ49人の[[ノーベル賞]]受賞者を招いた席で「私はこの今日お集まりいただいた皆様が、ホワイトハウスにかつて集められた最も秀逸な才能と知識の集大成だと思います. . . トーマス・ジェファーソンがここで一人で食事をした時を除いては」と挨拶した<ref>April 29, 1962 dinner honoring 49 Nobel Laureates (''Simpson's Contemporary Quotations'', 1988, from ''Public Papers of the Presidents of the United States'': John F. Kennedy, 1962, p. 347).</ref>。 今日まで2013年現在、2期を完全に務めたアメリカ合衆国大統領の中で、議会の一つの法案に対し一回も[[拒否権]]を発動しなかったことでは唯一となっていの人物である。学者達による[[歴代アメリカ合衆国大統領のランキング|アメリカ合衆国大統領の評価]]でも常に偉大な者の一人とされてきた。
 
== 生い立ちと教育 ==
ジェファーソンは[[1743年]][[4月2日]]に<ref name=B-D/>、ピーター・ジェファーソン(1708年3月29日 - 1757年8月17日)およびジェーン・ランドルフ(1720年2月20日 - 1776年3月31日)の息子として[[バージニア植民地]]に生まれた。両親は共にバージニア入植して何世代も経た者の古いの出であり、バージニア植民地でも最も著名な人々と密接に関わりのある家庭だった。10人兄弟の3番目であり、兄弟のうち2人は夭折した<ref>{{cite web|url=http://www.revolutionary-war-and-beyond.com/facts-on-thomas-jefferson.html |title=Facts on Thomas Jefferson |publisher=Revolutionary-war-and-beyond.com |date=1943-04-13 |accessdate=2010-02-04}}</ref>。母は、船長であり農園主を兼ねていたアイシャム・ランドルフの娘であり、[[ペイトン・ランドルフ]]の従姉妹かつ富裕なイギリス系[[ジェントリ]]の孫娘だった。父はアルベマール郡(シャドウェル、当時はエッジヒル)で農園主と測量士をしていたウェールズ人の子孫だった。父の古くからの友人であるウィリアム・ランドルフ大佐が1745年に死んだ時、父は[[遺言#遺言執行者|遺言執行人]]となり、タッカホーにあったランドルフの地所と遺児のトマス・マン・ランドルフ・ジュニアの面倒を見た。この年ジェファーソン家はタッカホーに移転し、そこで7年間過ごした後にアルベマールの自宅に戻った。父はその後当時の重要な地位である郡の[[大佐]]の位に指名された<ref name="HSR">Henry Stephens Randall, ''The Life of Thomas Jefferson''</ref>。
 
=== 教育 ===
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父の死後、1758年から1760年まで学識のある牧師ジェイムズ・モーリーの学校で学んだ。この学校は[[フレデリックスビル郡]]の[[ゴードンズビル]]近くにあり、シャドウェルからは12マイル (19&nbsp;km) 離れていたので、ジェファーソンアモーリーズ家に下宿した。ここでは[[西洋古典学|古典教育]]を受け、歴史や科学を学んだ。
 
[[1760年]]、16歳の時に[[ウィリアムズバーグ (バージニア州)|ウィリアムズバーグ]]にある、名門[[ウィリアム・アンド・メアリー大学]]に入学し、大学教育を2年間受け、[[1762年]]に優等賞を受けて卒業した。ウィリアム・アンド・メアリー大学では哲学科に入り、ウィリアム・スモール教授の下で[[数学]]、[[形而上学]]および[[哲学]]を学んだ。スモールは勉強熱心なジェファーソンに[[ジョン・ロック]]、[[フランシス・ベーコン (哲学者)|フランシス・ベーコン]]および[[アイザック・ニュートン]]などイギリス[[経験論|経験主義者]]の著作を紹介した。ジェファーソンは彼らのことを「世界が生んだ中でも最も偉大な3人」と呼んだ<ref>Merrill D. Peterson, ''Thomas Jefferson: Writings'', p. 1236</ref>。ジェファーソンはフランス語を極め、何処に行くにもギリシャ語の文法本を持ち歩き、[[バイオリン]]を嗜み、[[タキトゥス]]や[[ホメーロス]]の本を読んだ。感受性があり勤勉な学生であったジェファーソンは、これら全ての分野および[[家風]]に貪欲な好奇心を示し、1日に15時間勉強することも多かった。親しい学友であるローズウェルのジョン・ページはジェファーソンについて「最も一番の愛な人から引き離と別れてでも勉強のところに飛んで行ける」と述べている。
 
ジェファーソンは大学時代にフラット・ハット・クラブ協会という秘密結社の会員になった。今日クリストファー卿のレン・ビルと呼ばれる大学の建物に寄宿し、大広間で共通の食事を摂り、レン礼拝堂で朝と夕の礼拝に参加した。バージニア総督フランシス・フォーキエの贅沢なパーティに出席することも多く、そこでバイオリンを演奏し、ワインを飲み習ったしなむことを覚えた<ref>[http://www.nytimes.com/2006/12/03/books/chapters/1203-1st-hail.html Thomas Jefferson on Wine] by John Hailman, 2006</ref>。卒業後は[[ジョージ・ワイス (独立宣言署名者)|ジョージ・ワイス]]と共に法律を勉強し、[[1767年]]にバージニア法廷弁護士として認められた。
 
=== 大学卒業後 ===
[[1765年]][[10月1日]]、ジェファーソンの長姉ジェーンが25歳で死んだ<ref name="HSR 41">Henry Stephens Randall, ''The Life of Thomas Jefferson''. p 41</ref>。既に数年前に姉妹のメアリーがトマス・ボーリングに嫁ぎ、この年7月早く初頭にはマーサがダブニー・カーと結婚していた。姉妹達がいなくなったこと寂しさ悲しい思いをしていたので、姉の死は追い打ちをかけ、深い喪の期間失感おちいらせることなった<ref name="HSR 41"/>。結婚した姉妹はどちらも夫の家に移っており、家庭にはきょうだいであるエリザベスとルーシーや2人の幼児が仲間としているだけになった。エリザベスとルーシーは姉達のような知的刺激を与えてはくれなかったので、彼女達が居ても心の慰めにはならなかった<ref name="HSR 41"/>。
 
ジェファーソンはバージニア植民地で弁護士として多くの事件を扱うことにし、1768年から1773年の間は一般裁判所だけで毎年100件以上の訴訟を扱う一方で数百の事例の相談に乗った<ref name="HSR 47">Henry Stephens Randall, ''The Life of Thomas Jefferson''. p 47</ref>。ジェファーソンの顧客リストには母の家系であるランドルフ家などバージニアの特権階級の家族員が含まれていた<ref name="HSR 47"/>。特に黒人の弁護活動に熱心であった。
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|accessdate=2009-07-20}}</ref>。
 
モンティチェロはジェファーソンの[[奴隷]][[プランテーション]]でもあった。70年間という期間を通じて600人以上の奴隷を所有した。モンティチェロ・プランテーションにいる奴隷の多くは互いの間で結婚し子供達をもうけた。ジェファーソンは煙突あるいは私室の掃除のような難しい仕事をさせるために重要な地位にある信用できる奴隷数人だけに給与を払った。直接労働の日に言及したものは無いが、ジェファーソンの奴隷は恐らく夜明けから日暮れまで季節によって長い短いはあっても一日中働いたであろう。断片的な記録では、モンティチェロの奴隷宿舎ではキリスト教とアフリカ人の伝統を取り入れて豊かな精神生活があったことを示している。ジェファーソンが奴隷達に文法の教育を指示したという記録は無いが、モンティチェロの幾人かの奴隷は読み書きができた<ref>{{cite web|url=http://plantationdb.monticello.org/ |title=nMonticello |publisher=Plantationdb.monticello.org |date= |accessdate=2009-09-02}}</ref>。
 
== 政歴 1774年 - 1800年 ==
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[[アメリカ独立戦争]]が始まった直後の[[1775年]]6月、ジェファーソンは第二次大陸会議のヴァージニア代議員の一人になった<ref>[[#ナッシュ|ナッシュp.117]]</ref>。出席した代表中二番目の若さだったにもかかわらず、大陸会議は彼に、イギリス首相フレデリック・ノース卿からの和解の提案に対する拒否など、いくつかの重要文書の起草を委任した<ref>[[#ナッシュ|ナッシュp.117]]</ref>。
 
大陸会議が1776年6月に[[リチャード・ヘンリー・リー]]の独立決議案を審議し始めたとき、ジェファーソンは決議案に伴う宣言を準備するための[[5人委員会]]委員に指名された。ジョン・アダムズ、ベンジャミン・フランクリンを含むこの委員会は<ref>[[#ナッシュ|ナッシュp.117]]</ref>、ジェファーソンを、筆文章の書き手立つして評判があったために初稿を書くよう執筆者にんだ任した。この役割はおきま形式通りの作業に思われ、当時の誰もそれが大きな責任を伴うものだとは誰も考えなかった<ref>Ellis, ''American Sphinx'', 47-49.</ref>。ジェファーソンは他の委員に相談し、自分が提案した[[バージニア憲法]]の草案や[[ジョージ・メイソン (4世)|ジョージ・メイソン]]が起草した[[バージニア権利章典]]など他の資料から引用した文章で初稿を書き上げた<ref>Maier, ''American Scripture''. Other standard works on Jefferson and the Declaration include Garry Wills, ''Inventing America: Jefferson's Declaration of Independence'' (1978) and Carl L. Becker, ''The Declaration of Independence: A Study in the History of Political Ideas'' (1922).</ref>。4ページからなるジェファーソンの独立宣言の草稿は、6月11日から書き始められた<ref>[[#ナッシュ|ナッシュp.117]]</ref>。
 
ジェファーソンがこの草稿を委員会に見せ、それが最終版になって、6月28日に大陸会議に提出された。7月2日に独立決議案が可決された後、大陸会議は宣言の方に注意を向けた。数日間の議論によって大陸会議は言葉遣いを修正し、全文の4分の1近くを削除した。削除された部分は[[大西洋]][[奴隷貿易]]を批判したものであり、この修正にジェファーソンは不満だった<ref name=autogenerated1>Ellis, ''American Sphinx'', 50.</ref>。[[7月4日]]、[[アメリカ独立宣言]]が承認された。この宣言は結果としてジェファーソンの名声を上げるものとなり、その雄弁な前文はその後の[[人権宣言]]の規範になった<ref name=autogenerated1 />。
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=== バージニア邦議会の議員 ===
[[ファイル:Declaration independence.jpg|thumb|[[ジョン・トランブル]]描く''[[独立宣言]]''、5人委員会がその草稿を大陸会議に提出している。ジェファーソンは宣言文を机に置いている中央の背が高い人物。|alt=About 50 men, most of them seated, are in a large meeting room. Most are focused on the five men standing in the center of the room. The tallest of the five is laying a document on a table.]]
独立宣言の採択後はバージニアに帰り、9月には新しいバージニア邦議会の議員に選出された。この議員在任中に民主的な国家としてその新しい姿勢を反映させるためにバージニアの法体系を書き換え更新することに取り掛かった。3年の間に[[長子相続|長子相続制]]廃止、[[信教の自由]]の確立および司法体系の合理化など126の法案を書いた。1778年、ジェファーソンが書いた『知識のより広範な普及のための法案』は、アメリカの大学では初めての研究の選択制導入など、彼の卒業校で幾つかの学際的改革に繋がった。
 
ジェファーソンは邦議会議員である間に、[[殺人]]と[[謀反|反逆]]を除き、あらゆる犯罪について[[死刑|極刑]]を廃止する法案を提案した。その死刑改革法案は1票差で否決され<ref>{{cite web|url=http://www.deathpenaltyinfo.org/article.php?scid=15&did=410 |title=Part I: History of the Death Penalty |publisher=Deathpenaltyinfo.org |date= |accessdate=2009-09-02}}</ref>、バージニア州では[[強姦]]のような犯罪は1960年代まで死をもって罰せられるものとして残った。ジェファーソンは奴隷輸入禁止法は成立させたが、[[奴隷制]]そのものを禁止させることはできなかった。
 
=== バージニア邦知事 ===
ジェファーソンは[[1779年]]から[[1781年]]までバージニア邦知事を務めた。[[1780年]]にはウィリアムズバーグにあった首都を邦の中心に近い[[リッチモンド (バージニア州)|リッチモンド]]に移すことを監督した。国内で初めて学生が管理する倫理規定など、ウィリアム・アンド・メアリー大学の教育改革を提唱し続けた。1779年、ジェファーソンの命令で、ウィリアム・アンド・メアリー大学はジョージ・ワイスをアメリカの大学では初の法学教授に指名した。推進しようと思った学制改革の進み方が遅いことに不満となりをつのらせ、後にはバージニア大学の設立者になった。この大学は高等教育が宗教的原理と完全に分離されたものとしてアメリカ合衆国では初の大学になった。
 
ジェファーソンが知事を務めた期間にバージニアは[[イギリス軍]]に都合2度侵略された。まず[[ベネディクト・アーノルド]]、続いて[[チャールズ・コーンウォリス]]が指揮する[[イギリス軍]]に都合2度侵略され部隊であった。[[1781年]]6月、ジェファーソンは[[パトリック・ヘンリー]]やその他バージニアの指導者達と共に、イギリス軍の騎兵隊を指揮する[[バナスター・タールトン]]大佐によって危うく捕まりそうになった<ref>{{cite book|last=Bennett|first=William J.|authorlink=|title=America: The Last Best Hope (Volume I): From the Age of Discovery to a World at War|publisher=Nelson Current|year=2006|page=99|chapter=The Greatest Revolution|isbn=1-59555-055-0}}</ref>。ジェファーソンの業績を大衆が認めなかったためにその後の政治的栄達が遅れ、バージニアでは公職に再度選ばれることは無かった<ref>{{Harvnb|Ferling|2004|p= 26}}</ref>。しかし、1783年には邦議会から大陸会議(この時は[[連合会議]])代表に選出された。
 
=== 独立戦争 ===
1780年リッチモンドが英軍に占領され、モンティチェロに避難した。まだ大統領まれていない時代の以前、彼はイギリスから米国最大の実力者とイギリスから目されていた。
世論は、彼の敵前逃亡を非難した。
 
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ジェファーソンは1785年から1789年まで駐フランス公使を務めていたので、[[フィラデルフィア憲法制定会議]]には出席できなかった。憲法草案には権利章典が欠けていたにも拘わらず全体的には新しい憲法を支持し、文通相手の[[ジェームズ・マディスン]]から経過を知らされていた。
 
[[パリ]]滞在中は[[シャンゼリゼ通り]]にある家屋に住んだ。多くの時間の多く使っ割いて市内の建築的見どころある建築を探索し、またパリの提供する芸術を楽しんだ。[[サロン]]文化のお気に入りに愛児となり、市内の最も著名な人々に晩餐に招待されることも多かった。さらにジェファーソン自身もしばしばフランスやヨーロッパの社交界からの人々を饗応した。ジェファーソンはパリに娘達を伴っており、モンティチェロからヘミングス家の2人の奴隷も連れてきていた。ジェームズ・ヘミングス、授業料を払いフランスのシェフとして訓練させる授業料を払った。ジェームズ・ヘミングスはジェファーソンが[[フィラデルフィア]]に居るときにシェフを務めた。ジェームズの妹である[[サリー・ヘミングス]]はジェファーソンの幼い娘に付いて海外に渡った。ジェファーソンはこのパリで亡妻の異母妹で奴隷のサリー・ヘミングスとの長い関係を始め彼が死ぬまで関係は続き1子までもうけている。二人のヘミングスはパリ滞在時代にフランス語を覚えた<ref>Annette Gordon-Reed, ''The Hemingses of Monticello: An American Family'', New York: W.W. Norton & Company, 2008</ref>。
 
1784年から1785年に、ジェファーソンはアメリカ合衆国と[[プロイセン]]の間の貿易関係を構築する者になった。プロイセンの大使フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ツレマイアーとアメリカの[[ジョン・アダムズ]]が二人とも[[デン・ハーグ|ハーグ]]に居り、[[ベンジャミン・フランクリン]]がパリに居たので、彼等もこの動きに関わった<ref>{{cite book|url=http://books.google.com/books?id=dmgUAAAAYAAJ&pg=PA218&lpg=PA218&dq=Thulemeier+Magdeburg&source=bl&ots=88_moQefOS&sig=78Uawff9ApALaQjVjOix13xjBug&hl=en&sa=X&oi=book_result&resnum=10&ct=result#PPA307,M1 |title=The Diplomatic Correspondence of the United States of America |publisher=Books.google.com |date= |accessdate=2009-09-02}}</ref>。
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[[ファイル:Thomas Jefferson Presidential $1 Coin obverse.png|thumb|180px|大統領1ドル銀貨のジェファーソン|alt=US $1 coin bearing full face engraving of Jefferson]]
独立戦争時、貧弱な軍備のために敵前逃亡した苦い経験から、富国強兵政策を推進した。
ジェファーソンは連邦政府の多くの税を撤廃し主に[[関税]]収入に頼ろうとした。ジョン・アダムズ政権で成立しており、ジェファーソンが違憲だと信じていた外国人・治安諸法の下で投獄されていた人々を釈放した。1801年の司法権法を撤廃し、アダムズの「真夜中の判断」で任命されていた多くの判事を解職した。このことで「[[マーベリー対マディソン事件]]」に関する重要な[[合衆国最高裁判所|最高裁判所]]判決が導かれることになった。ジェファーソンは、アメリカとしては初の重要な海外戦争となった[[第一次バーバリ戦争]](1801年-1805年)を始め指揮してこれに勝利した。[[1802年]]には[[ウェストポイント (ニューヨーク州)|ウェストポイント]]の[[陸軍士官学校 (アメリカ合衆国)|陸軍士官学校]]を設立した。
 
[[1803年]]、連邦議会の土地を購入する権限について合憲性に疑念があったにも拘らず、[[ミシシッピ川]]以西の[[フランス領ルイジアナ|ルイジアナ]]を[[フランス]]から1500万ドルで[[ルイジアナ買収|買収]]した(アメリカの小学生用歴史教科書にはジェファーソンは、「わが国のために、おそらく史上最大のバーゲン品を買い上げた」と紹介されている)。こうして得られた土地は現在のアメリカ合衆国領土の23%に相当している。
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== 人物 ==
ジェファーソンは痩せ型で背が高く、身長約6フィート (183 cm) で著しくとても姿勢が良かった<ref>[http://www.monticello.org/reports/people/descriptions.html Monticello Report: Physical Descriptions of Thomas Jefferson]. Retrieved September 14, 2007.</ref>。
 
「モンティチェロの聖人」は別のニックネームである「人民の中の男」を得るようなイメージを育てた。ホワイトハウスへの客人をローブとスリッパというような普段着で迎えて大衆的な雰囲気を作った。国務長官ジェームズ・マディスンの妻ドーリーやジェファーソンの娘達がホワイトハウスの外交儀礼を和らげ、フォーマルな公式晩餐会もより形式ばらない楽しませる社交行事に変えた<ref name="americanpresident.org">{{cite web|url=http://www.americanpresident.org/history/thomasjefferson/biography/FamilyLife.common.shtml |title='Thomas Jefferson (1743-1826)' at the University of Virginia |publisher=Americanpresident.org |date= |accessdate=2009-09-02}}</ref>。ジェファーソンは言論出版の自由の抜きん出た守護者だったが、時には党派的な新聞と言い争い、大衆にアピールした<ref>{{cite web|url=http://www.spartacus.schoolnet.co.uk/WWjefferson.htm |title=Thomas Jefferson |publisher=Spartacus.schoolnet.co.uk |date=1999-09-22 |accessdate=2009-09-02}}</ref>。