「ラヨシュ2世 (ハンガリー王)」の版間の差分
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[[ファイル:Hans_Krell_001.jpg|thumb|ラヨシュ2世]]
'''ラヨシュ2世'''('''II. Lajos''', [[1506年]][[7月1日]] - [[1526年]][[8月29日]])は、[[ハンガリー王国|ハンガリー]]王(在位:[[1516年]] - [[1526年]])、[[ボヘミア王国|ボヘミア]]王('''ルドヴィーク''' '''Ludvík Jagellonský''', 在位:同じ)。[[ヤギェウォ朝|ヤゲウォ家]]の[[ウラースロー2世]](ヴラジスラフ)の子。母はウラースロー2世の3番目の王妃[[アンヌ・ド・フォワ|アンナ]]。姉は[[フェルディナント1世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント1世]]の王妃[[アンナ・ヤギエロ|アンナ]]。
1516年、父の後を受けてハンガリーとボヘミアの王として即位する。しかし若年のために国内の統率が困難となり、それが災いして1526年、[[オスマン帝国]]の[[スレイマン1世]](大帝)が率いるオスマン軍との戦い([[モハーチの戦い]])で、20歳の若さで敗死した。これによりハンガリーの大部分は、オスマン帝国に奪われた([[オスマン帝国領ハンガリー]])。野心家であったといわれるが、多くは成し遂げられることはなかった。
嗣子が無かったため、スレイマン大帝によりハンガリー王にはオスマン帝国に服属した[[トランシルヴァニア]]公[[サポヤイ・ヤーノシュ]]が推されたが、ハンガリー貴族の反対により、ラヨシュ2世の姉
{{先代次代|[[ハンガリー国王一覧|ハンガリー王]]|1516年 - 1526年|[[ウラースロー2世]]|[[フェルディナント1世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント1世]]}}
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