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{{Infobox 絵画作品
|image = [[File:Laocoon Pio-Clementino Inv1059-1064-1067.jpg|280px]]
|title = ラオコーン像
|other_language_1 = [[イタリア語]]
|other_title_1 = Gruppo del Laocoonte
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『'''ラオコーン像'''』(ラオコーンぞう、{{lang-it-short|Gruppo del Laocoonte}})は、[[バチカン美術館]]のピオ・クレメンティーノ美術館に所蔵されている大理石製の古代ギリシア彫像。[[ギリシア神話]]の[[イリオス|トロイア]]の神官[[ラーオコオーン|ラオコーン]]とその2人の息子が海蛇に巻き付かれている情景を彫刻にした作品である。古代ローマの博物家[[ガイウス・プリニウス・セクンドゥス|プリニウス]]によると、この彫像の作者は[[ロドス島]]出身のアゲサンドロス、アテノドロス、ポリュドロスの三人の彫刻家であるとしている。
 
== 歴史 ==
[[file:Laocoon Pio-Clementino Inv1059-1064-1067 n6.jpg|thumb|left|苦悶の表情を浮かべるラオコーン]]
ラオコーンの物語は今は現存していない[[ソポクレス]]の劇作品の主題になっていたと、他のギリシア人作家が書き残している。ラオコーンは槍を投げつけることによって[[トロイアの木馬|トロイの木馬]]がギリシア軍の計略であることを暴露しようとしたが、女神[[アテーナー|アテナ]]によって遣わされた海蛇に襲われて彼の2人の息子と共に殺された<ref>William Smith, ''Dictionary of Greek and Roman Biography and Mythology'', Taylor and Walton, 1846, p. 776.</ref>。そしてトロイア人たちはこの木馬が聖なるものであると信じ込んだ。この一連の物語を題材に書かれた有名な書物に、古代ローマの詩人[[ウェルギリウス]]の『[[アエネーイス]]』があるが、おそらくはその執筆以前にこの像は制作されている。
 
『ラオコーン像』の制作年度については、紀元前160年から紀元前20年までさまざまな見解がある。ロドス島の[[リンドス]]で出土した碑文では、彫像の製作者と推定されているアゲサンドロス、アテノドロスの名前が紀元前42年以降に記載されている。このため紀元前42年から紀元前20年ごろに制作されたのではないかと考えられている。
 
この作品がオリジナルの彫像なのか、他の彫像の模倣なのかは判明していない。製作者とされる3人のロドス人は模倣を専門にした彫刻家で、紀元前200年に[[アッタロス朝|ペルガモン王国]]で制作された[[銅像]]がオリジナルであるとする意見もある<ref>Stewart, Andrew W. (1996), "Hagesander, Athanodorus and Polydorus", in Hornblower, Simon, Oxford Classical Dictionary, Oxford: [[オックスフォード大学出版局|Oxford University Press]].</ref>。プリニウスはその著書『[[博物誌]] (XXXVI, 37)』で、『ラオコーン像』が、[[ローマ皇帝]][[ティトゥス]]の宮殿に置かれていたと書いている。一塊の大理石から彫りだされているとも書かれているが、後年発掘されたこの彫像は7つのパーツが組み合わされて出来ていた<ref>Richard Brilliant, ''My Laocoön - alternative claims in the interpretation of artworks'', University of California Press, 2000, p. 29.</ref>
<ref name="OCD">{{Citation | last = Rose | first = Herbert Jennings | author-link = | contribution = Laocoön | editor-last = Hornblower | editor-first = Simon | title = Oxford Classical Dictionary | volume = | pages = | publisher = Oxford University Press | place = Oxford | year = 1996 | contribution-url = }}</ref>。
 
[[file:Pope_Julius_II.jpg|thumb|right|ローマ教皇ユリウス2世, ラファエロ(ロンドン・ナショナル・ギャラリー(1511年 - 1512年))]]
この彫像はもともとは富裕なローマ市民の依頼で制作されたと考えられている。1506年に[[ネロ|ローマ皇帝ネロ]]の大宮殿[[ドムス・アウレア]]の近くから『ラオコーン像』が出土したときに、自身熱心な古典学者でもあった[[ユリウス2世 (ローマ教皇)|ローマ教皇ユリウス2世]]が入手し、この像を現在のバチカン美術館の一部にあたる庭園に置いた。
 
2005年には、この彫像が[[ルネサンス|ルネサンス期]]の芸術家[[ミケランジェロ・ブオナローティ|ミケランジェロ]]による贋作ではないかという主張があった<ref>Catterson, Lynn, "Michelangelo's 'Laocoön?'" ''Artibus et historiae''. '''52''' 2005: 29</ref>。『My Laocoön』の著者でもある美術史家のリチャード・ブリリアントはこの主張に対して「あらゆる意味で馬鹿げている』とした<ref>[http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9D07E0D91E3EF93BA25757C0A9639C8B63&pagewanted=all An Ancient Masterpiece Or a Master's Forgery?, New York Times, April 18, 2005]</ref>。
 
=== 修復 ===
[[file:Laocoonphoto.jpg|thumb|left|20世紀の修復以前の腕を伸ばした『ラオコーン像』]]
『ラオコーン像』が発掘されたときにはラオコーンの右腕や左右の息子たちの腕や手は損壊し、失われていた。当時の芸術家や鑑定家たちは、失われた腕がもともとどのような形だったのかを議論している。ミケランジェロは、ラオコーンの右腕は肩を越えて背中に回っていたのではないかと考えた。逆に、右腕は大きく広げられている方が英雄の像としては相応しいとする者もいた。教皇は非公式なコンテストを企画し、失われた腕がどのようなものだったかの案を彫刻家たちに命じて、[[ラファエロ・サンティ|ラファエロ]]に審査させている。その結果、ラオコーンの右腕は大きく伸ばされた状態が相応しいと判断され、新しく伸ばされた腕の状態で修復された。
 
1906年に考古学者・美術商でバッラッコ美術館長ルードヴィヒ・ポラックが、ローマで大理石で出来た右腕の破片の彫刻を発見する。『ラオコーン像』と様式が似ているとしてバチカン美術館に右腕の彫刻を持ち込んだが、バチカン美術館はその右腕を半世紀にわたって放置していた。1950年代になってからバチカン美術館は、この右腕がオリジナルの『ラオコーン像』のものであり、ミケランジェロが推測したように右腕は曲がっていたという鑑定結果を出した。彫像は一旦解体され、この曲がった右腕が新しく取り付けられて再び組み直された<ref>See {{citation|last=Beard|first=Mary|newspaper=Times Literary Supplement|title=Arms and the Man: The restoration and reinvention of classical sculpture|date=2 February 2001|url=http://tls.timesonline.co.uk/article/0,,25829-2465943_2,00.html}}. Beard, in fact, is highly sceptical of the identification, noting that ‘the new arm does not directly join with the father's broken shoulder (a wedge of plaster has had to be inserted); it appears to be on a smaller scale and in a slightly differently coloured marble’.</ref>。このとき、以前の修復で取り付けられた二人の息子の腕と手は再び除去されている。
 
この彫像には多くのコピーが存在しており、有名なものにロドス島の[[マルタ騎士団]]本部の彫像がある。現在もラオコーンが腕を伸ばしている、以前の状態でのコピーがあるが、ロドス島の彫像はバチカンでの修復にあわせて変更されている。
 
== 影響 ==
[[file:Dying slave Louvre MR 1590.jpg|thumb|『瀕死の奴隷』ミケランジェロ(ルーブル美術館、1513年 - 1515年)]]
『ラオコーン像』の発見はイタリアの彫刻家にとって大きな衝撃であり、イタリア・ルネサンス芸術の方向性に極めて重大な影響を与えた。ミケランジェロの筋肉美を強調した作品群とその官能的なヘレニズム風様式、特に男性裸像の表現はよく知られている。『ラオコーン像』の影響はミケランジェロの後期の作品に顕著で、教皇ユリウス2世の墓碑のための『反抗する奴隷(ルーブル美術館、1513年 - 1516年))』、『瀕死の奴隷(ルーブル美術館、1513年 - 1515年)([[:en:Dying Slave]])』の2彫刻が例としてあげられる。この彫刻の気品あふれる悲劇性はドイツの詩人・思想家[[ゴットホルト・エフライム・レッシング]]の文学・美学のエッセイのテーマの一つで、その著書『ラオコーン ''Laokoön''』は最初期の古代美術論争の一つ「[[ラオコオン論争]]」を巻き起こした。
 
[[file:El Greco 042.jpg|thumb|left|ルネサンス期のギリシア人画家[[エル・グレコ]]が描いたラオコーン(ワシントン・ナショナル・ギャラリー(1604年 - 1614年))]]
ルネサンス期のフィレンツェの彫刻家バッチョ(バリトロメオ)・バンディネッリ ([[:en:Bartolommeo Bandinelli]])は、[[メディチ家]]出身の教皇[[レオ10世 (ローマ教皇)|レオ10世]]の依頼で『ラオコーン像』のコピーを制作した。バンディネッリが制作したこの彫刻も幾度かコピーされており、小さな[[ブロンズ像]]のコピーが[[ウフィツィ美術館]]に所蔵されている<ref>([http://www.wga.hu/frames-e.html?/html/b/bandinel/laocoon.html BANDINELLI, Baccio]. Web Gallery of Art. Retrieved on March 27, 2009.</ref>。[[フランソワ1世 (フランス王)|フランス王フランソワ1世]]が[[フォンテーヌブロー宮殿]]に飾るために、イタリア人画家・彫刻家[[フランチェスコ・プリマティッチオ]] ([[:en:Francesco Primaticcio]]) の監督の下、オリジナルの『ラオコーン像』から鋳型を取って制作させたブロンズの鋳像が、現在ルーブル美術館に所蔵されている。
 
『ラオコーン像』は[[ナポレオン・ボナパルト]]によって、イタリア侵攻後の1799年に強奪されてパリに移された。そして当時「ナポレオン美術館」といわれていた現在のルーブル美術館に収容され、フランス芸術の[[新古典主義]]に影響を与えた。ナポレオン没落後の1816年に、この彫像はイギリスによってバチカンへと返還された。
 
=== ラオコーン論争 ===
プリニウスは『ラオコーン像』のことを「あらゆる絵画・彫刻作品のなかでもっとも好まれている」とし<ref>[http://www.idcrome.org/lacslide1.htm Pliny The Laocoon in Antiquity]. Institute of Design + Culture, Rome. Retrieved on March 27, 2009.</ref>、すべての芸術作品の中では彫刻がもっとも優れているという、伝統的な考えをもたらしてきた。18世紀のドイツ人美術史家[[ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマン]]は、本来厭わしいはずの衰弱と死の瞬間を捉えたこの彫刻が賞賛されている矛盾を文章にした。これに対して論争が起こったが、もっとも影響が大きかったのはゴットホルト・エフライム・レッシングの『''Laocoon: An Essay on the Limits of Painting and Poetr''』であり、この彫刻とウェルギリウスの詩文とを比較することによって[[視覚芸術]]、[[言語芸術]]との違いを検証した。レッシングは、この彫刻を作成した芸術家たちはラオコーンの現実的な肉体的苦痛を表現しきれてはいない、死に至るような苦痛はもっと激しいものであり、目に見えるものとして表現できるものではないとした。そして、芸術家たちは美としての苦痛を表現しているのだと主張した。
 
この論争でもっとも異質な介入をしたのは、イギリスの版画家・詩人[[ウィリアム・ブレイク]]の版画である。落書きのように様々な方向で書かれた数ヶ国語の文章が、『ラオコーン像』のまわりを取り囲んだ版画である。ブレイクは『ラオコーン像』を[[イスラエル王国]]のオリジナルをコピーした出来の悪い彫刻だとし、「3人のロドス人が[[ソロモン神殿]]の[[ヤハウェ]]とその二人の息子である[[サタン]]と[[アダム]]の彫刻をコピーした」などと書いている<ref>[http://squibix.net/blake/m/laocoon/withnotes.html Blake's comments]</ref>。ブレイクの意見では、古代ギリシア・ローマ時代の模倣は創造活動には害悪でしかなく、ユダヤ教とキリスト教の精神を背景にした芸術との比較において古代彫刻は陳腐な写実主義に過ぎないとした。
 
=== その他 ===
*『ラオコーン像』のラオコーンは、19世紀のアメリカ人彫刻家ホレイショ・グリーノウ ([[:en:Horatio Greenough]]) の大理石彫刻『The Rescue』にも若干の影響を与えており、この彫刻は[[アメリカ合衆国議会議事堂]]の東正面に100年以上設置されている。
*イギリスの小説家[[チャールズ・ディケンズ]]の1843年に出版された『[[クリスマス・キャロル]]』の終章近くで、主人公エベネーザ・スクルージの台詞にラオコーンが出てくる。
*1910年にアメリカ人文芸評論家アーヴィング・バビット ([[:en:Irving Babbitt]]) は『新ラオコーン』というタイトルの、20世紀初頭の現代文化に関するエッセイを書いた。
*1940年にアメリカ人美術評論家[[クレメント・グリーンバーグ]]は論文『より新しいラオコーンにむけて』という表題で、[[抽象絵画|抽象芸術]]に関するエッセイを書いた。さらに「より新しいラオコーンにむけて」は、ヘンリー・ムーア財団が2007年に開催した展覧会のタイトルにも使用され、『ラオコーン像』の影響を受けた現代芸術化の作品を展示した。
 
== 脚注 ==
{{reflist}}
 
== 出典 ==
*Haskell, Francis, and Nicholas Penny, 1981. ''Taste and the Antique: The Lure of Classical Sculpture 1500-1900'' (Yale University Press), cat. no. 52, pp.&nbsp;243-47 (illustrated with the extended arm).
*Catterson, Lynn. "Michelangelo's 'Laocoön?'" Artibus et historiae. 52. 2005
 
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Laocoon group}}
* [http://www.idcrome.org/laocoon.htm 500 years of the Laocoon]
 
{{ローマ遺跡}}
 
{{DEFAULTSORT:らおこおんそう}}
[[Category:像]]
[[Category:ギリシア美術]]
[[Category:ギリシア神話]]
{{Link GA|ca}}
{{Link GA|es}}